プロフィール

 

     
イラン・エルブールス山脈(1967.3)
ホレノー山山頂(24才)
  登頂後、山麓の村人たちが歓迎会を開
いてくれた(1967.3)
  25 歳(1968.8.15)胃の手術
体重10 キロ減。一念発起、
 翌年(1969.8.1)合気道始める
  28 歳( 1971.10)初段修得
 本部道場で合気道の紹介者の稲越薫氏と
     
青葉塾道場道場開き(1974.2.3)
合気道の演武(29 歳)相手は村井謙介氏
  古希富士登山(2013.7.29)
富士吉田口 浅間神社から頂上まで
  第11 回青葉武道演武大会(2016.11.23)
   抜刀術の演武(73 歳)
  富士吉田口 浅間神社から1 合目を通って山頂を踏破すると、「日本一高い富士山に麓から登頂した こと認定します」という認定証が送られてくる

 

   あの時から25年(平成11年11月23日)


      25周年記念   合気道7段  本田靖生

 


プロフィール(詳細)

 

 

 あれから25年たってしまった。そう25年も前のこと、昭和48年、私は青葉台へ引っ越してきた。あちこちでマンションを探していた中の一つで、国道246号線を真っ直ぐ走って来て、モデルル−ムをのぞいて、その場で決めた。まわりは建物が何もなかった。頭金が思っていたより少なくて済むようなので、申し込んだのだ。確か九月ごろの入居だったような気がする。直後にオイルショック、狂乱物価。住んでいるマンションを倍で売って引っ越した人がいた。買ったばかりの住まいは高騰してしまった。私は、はからずも瞬時でお金持ちになったんだ、と妙な気分だった。トイレットペ−パ−を買い占める人がいて、世は騒然としている。こちらは、新居をやっと購入したんだ、あせってもしょうがない、と意外と落ちついている。慌てないのは、五年前から通っている「合気道」のお蔭だろう、とその時、ぼんやりと、そう思った。
 新宿・若松町、これが本部道場か、とビルを仰いだのは、昭和44年7月半ば、早朝6時のことだった。病後の痩身、少し猫背、だれもが、そういう風体に、稽古通いが続くわけがない、と思っていたらしい。ゼロからのスタ−トとよくいうけれど、25歳で胃を切除、胃が完全な形でないんだから、マイナスからの挑戦だった。不摂生がたたったのだ。切り刻まれた腹部をなでながら、何とか元の身体を取り戻そうと、焦っていた。 出会った「合気道」という武道は、そういう境遇にピタリだった。稽古に通ううち、道主・植芝吉祥丸先生の所作に、次第に感服するようになった。「いわゆる」武道家にありがちな、他を圧する威圧感、気負い、傲岸さ、そんなものは全くなかった。何時も、あたりはさわやかな春風が漂っていた。指導は丁寧で優しい雰囲気に包み込まれた。稽古のあと事務所前で挨拶すると、どんな時でも、必ず笑顔で返された。あの頃、この合気道に出会わなかったら、と思うとぞっとする。それも、植芝吉祥丸先生の「朝稽古」がなければ、あれだけ夢中になったかどうか。 引っ越した「青葉台」は、まだ生まれたばかりの土地だった。周辺は、宅地造成中で、人家もまばらだった。人は思い思いの場所から集まって、これからコミュニティ−を作るわけだ。こういうところは、子供たちが割りを食う。公共施設はまだ十分ではない。そのあたりに、代々申し送られてくる誰もが認める”ガキ大将”もいない。人材が適正に配置されないのだ。なにもなくとも、心身は鍛え育てることが出来ること、合気道で証明しよう、そうだ道場を作ろうと、即決だった。畳15枚のマンションの集会室。道場開きが、植芝吉祥丸道主を迎えて挙行された。宮崎吉政先生も駆けつけてくれた。それが昭和49年2月3日のことだった。私はまだ二段だった。思えば汗顔の至り、若さ故の暴走を、道主・植芝吉祥丸先生は、ニコニコしながら、狭いマンションの拙宅での直会に、遅くまでお付き合いしていただいき,「私は本田さんの新居のお祝いに植芝吉祥丸個人でやってきたんですよ。」と、独特の気配りで、合気道青葉塾道場を、さりげなく、認知していただいた。それが、25年も続いた道場になったのだ。もう一度いつかこの道場にお招きして、演武を、と思っていたが、残念ながら、今年初頭、入神された。畳15枚の狭い道場で、普段と変わらず、悠然と、華麗な演武を披露していただいた、25年前の「道場開き」での植芝吉祥丸先生を、今でも鮮やかに思い起こすことが出来る。 

 

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