錬心抄

2017/02/01
錬心抄  158号  2016.12月号
「生理的に下り坂になった時 人はようやく上り坂となる」

これはオーストラリアの心理学者、ビクトール・フランクルの言葉である。第二次世界大戦、一家はナチスの強制収用所に収容された。家族は全員死亡。生還する機会は少ない。その収容所の中で起きる人間の業。ガス室に送られるか、どこか他の収容所に移されるか、偶然で決まった。裏切り、自暴自棄、力尽きて、自ら死を選ぶ人も多かった。その収容所の中での行動を冷静に記録する。それが「夜と霧」で世界のベストセラーになった。「どんな時でも人生には意味がある。たとえあなたがそれを疑ったとしても」。過酷な環境で「生きる意味」を学ぶことを決めてあたりを冷静に観察した。そういう地獄のような生活に耐えた。ついに開放、奇跡の生還を果たす。「あなたがどれだけ絶望しても、人生は決してあなたを絶望しない」。これもビクトール・フランクルの言葉である。

2016/11
錬心抄  157号   2016.11月号
「 知力には限りがある。感覚は限りない力を持つ」


「知力には限りがある。感覚は限りない力を持つ」これはハリウッド女優・シャーリー・マクレーンさんの言葉。「アパートの鍵貸します」などの作品がある。そういう映画があったなという少年時代のかすかな記憶はあった。ただあまり関心もなく観てはいない。この女優さんに痛く興味を持ったのはこの方の書、「アウトオンアリム」という本を読んでからだった。輪廻転生、前世を信じ、幽体離脱もあるという。人間は生まれ変わってくる。自分の前世は日本人で、あの一休禅師の奥さんだった人だと言っておられる。私は25歳で胃の大手術をしている。その時、幽体離脱を体験したのだ。誰も信じてくれなかった。それをあのハリウッドの女優さんがはっきりとあるという。本をかたっぱしから読んでいった。生まれは1934年4月24日。私と誕生日が同じ。不思議な縁なのである。

2016/09/27
錬心抄  156号  2016.10月号
「一技萬錬」

「いちぎばんれん」。この言葉だ。武道修行のすべてを表している。どうのこうの考えない。一つの技をつべこべ言わずに一万回繰り返せ。これが鍛錬だ。これはどこかの剣道の師範がよく弟子たちにいってた言葉だとネットでちらりと見て、いい言葉だと書き留めた。

「千鍛萬錬」

「せんたんばんれん」。「一技萬錬」はこの「千鍛萬錬」から来ていることが分かった。「千日の稽古を持って鍛とし、萬日の稽古をもって錬とする」の宮本武蔵だ。千日は約三年。武道は三年やっただけではやったといわない。万日(三〇年)でようやく一人前。それも人生五〇年の時代の言葉である。

2016/09/27
錬心抄  155号   2016.9月号
人は錬磨により仁となる。  道元

『玉は琢磨によりて器となる。人は錬磨によりて仁となる。いづれの玉か初より光りある。誰人は初心より利なる。必ずすべからくこれ琢磨し錬磨すべし。』(正法眼蔵随聞記)
玉は磨くことで初めて価値が出る。人も自らを磨き鍛錬して初めて真の人となる。世の中に初めから光り輝いている玉はない。初めから優れた働きをする人はいない。必ず磨き、鍛錬しなければならない。決して能力や素質が無いと自らを卑下して道を学ぶ努力を怠ってはいけない。人生において大切なのは、自分を磨いてくれる師匠、伯楽を見つける事。それは運命的な出会いや巡り合いによる場合もあるが、自らそういった人を求め続けていれば伯楽と巡り合えるチャンスも増える。 仏の子であっても仏の行いを実践しなければ仏にはならない。『道』とは、実践していくこと。 そこにすばらしい『器』が現れるのだ。武道の真髄はそこにある。

2016/08/05
錬心抄 154号 2016.8月号
「而今」 道元

「而今」というのは「じこん」と読む。道元禅師の言葉で、中国での修行時代に悟った世界観である。意味は、「ただ、今、この一瞬」。「他は是我にあらず」、他人はあてにならない。「さらにいずれの時をか待たん」、未来はわからない。確信の持てるのは、「今、自分が生きているこの一瞬だけ」。武術の真髄もこの一瞬に生きることなのだ。上手くいかない現状を過去や他人のせいであると悔やむな。先が見えぬ未来に不安を抱くな。しかし、過去や他人を責め立てても、まだ来ていない未来に不安を抱きグズグズしても、事態は何も変わらない。それならば、物事の本質を見据えて、「今、この瞬間」に集中して、心を向けて懸命に取り組むことこそ、事態を好転させる唯一の方法なのだ。「今という今なる時はなかりけり まのときくればいのときは去る」こういうことばもある。人間は「而今」、この一瞬である。

2016/07/16
錬心抄 153号  2016.7月号 
「知足者富」老子

知人者智、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富、強行者有志。不失其所者久。死而不亡者壽

という原文からきている。足るを知る者は富む、である。
 他人を理解する事は普通の知恵のはたらきだが、自分自身を理解する事はさらに優れた明らかな知恵のはたらきなのだ。他人に勝つには力が必要だが、自分自身に打ち勝つには本当の強さが必要だ。満足する事を知っている人間が本当に豊かな人間で、努力を続ける人間はそれだけで既に目的を果たしている。物があふれている。欲しいものは何でもすぐ手に入る。日本中を自分の手にしてしまった徳川家康よりも、今自分の周りにあるものは凄いのだが、あたり前として、さらに未来に期待をしてしまう。今あるものを見つめなおす。己を知ることがいかなることか。足るを知る、である。これが一歩踏み出す前進なのである。武術修得の真髄はこれなのだ。

2016/07/16
錬心抄 152号 2016.6月号
「廓然無聖(かくねんむしょう)」達磨大師

禅宗の祖達磨大師の言葉で、悟りの境地を一言で表わした語として知られる。「だるまさん」が、ぎょろっとした目で「かくねんむしょう」といってると思えばいい。「廓然かくねん」とは台風一過の青い空のように晴れやかなことを表している。さわやかな境地、そこには汚れた迷いや煩悩はひとかけらも無い。そればかりか尊い悟りさえない。そこはあらゆる言葉を絶した絶対的無一物の世界だ。山川草木・花鳥風月。 今もその世界で生き生きといのちを輝かせている。自然界では人間様だけが「ああじゃない。こうじゃない」と余計なことを考え、怒ったり、悩んだり。人間というのは本能が破壊してしまった唯一の動物なのである。武術の修行も「廓然無聖」。素直に眼前に見たまんま動作を繰り返す。無心、にである。奥義というのは、そう、基本のことに他ならない。

2016/05/17
錬心抄 151号 2016.5月号
「兵法の理にまかせ諸芸諸能の道となせば万事において吾に師なし」宮本武蔵

宮本武蔵は、「平成28年熊本地震」で大変な被害を受けている熊本城、この城で晩年を過ごしている。剣術好きの藩主・細川忠利が異能の剣客を迎え入れた。生まれは美作(備前の国)の宮本村。30歳頃だった。有名な巌流島の戦いで佐々木小次郎を破る。吉川英治の小説「宮本武蔵」はここまで。その後、波乱の人生を送るが、肥後・熊本に落ち着いてから、剣の世界では「円明流」「二天一流」でその存在を位置づけ、「五輪書」を書き上げ、水墨画の数々の名品を残した。剣の道を究めて悟ったのが「兵法の理にまかせ諸芸諸能の道となせば万事において吾に師なし」である。熊本地震、熊本城崩壊で、昭和34年の高校時代の下宿生活に思いを馳せていた。そのころ、偶然、散歩中に出会ったのが、小さな武蔵塚。剣豪・宮本武蔵が身近になった瞬間だった。

2016/05/17
錬心抄 150号 2016.4月号
「剣は手に従い 手は心に従う 心は法に従い 法は神に従う 練磨これ久しゅうすれば 剣は手を忘れ 手は心を忘れる 心は法を忘れ 法は神を忘れる 至れりというべし」神道無念流 斉藤弥九郎

幕末の三大道場のひとつ、斉藤弥九郎の練兵館、神道無念流の道場訓だった。長州藩の藩士たちが学んだ。桂小五郎は塾頭。久坂玄瑞、高杉晋作など多くの若者たちがこの道場で剣を通じて新しい時代に向かって切磋琢磨。剣術の修練は心の修練でもあった。剣の稽古の行く先は禅の世界だったのだ。自然体、無畏自然、忘我、法を忘れ、神を忘れる 至れりというべし、である。

2016/05/17
錬心抄 149号 2016.3月号
「当たり前のことがいつでもどこでもできるならば私があなたたちの弟子になりましょう」千利休

利休は弟子たちに「茶の湯の真髄は何か」と聞かれると、「茶は服の良き様に点て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野に咲く様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」(「利休七則」)と答えた。すると弟子たちは「師匠、それくらい存じております」。その時利休は「これが十分にできたら、私はあなた方のお弟子になりましょう」と答えたのだ。茶に精神的なものを求めた。茶の湯の簡素化である。侘び、これ以上何も削れない極限まで削って緊張感を生み出した。武道もまったくその通り。稽古を通じて心身の無駄を削って行く。あたり前のことがいつでもどこでも出来る、その境地まで磨き上げていく。茶も武道も行き着くところ、それは禅の世界なのだ。

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