社論・乾坤一擲管理
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1月12日(金)乾坤一擲    青葉区版417号

有馬記念、キタサンブラックの快走、暮の12月24日は、「まつり」の歌で、中山競馬場は盛り上がった。そう、この馬、演歌歌手北島三郎の愛馬である。有馬記念は、競馬の「オールスター戦」として昭和31年に「中山グランプリ」の名称でスタートした。最初、プロ野球のように、ファン投票で出走馬を選出する方式を採っている。当時、有馬頼寧中央競馬会理事長の発案だった。この方、久留米藩15代当主、戦前はプロ野球、東京セネターズのオーナーでもあった。府中の東京競馬場ではダービーが行われる。それに対抗して、中山でも何か大きな大会を、として作られたのだ。第1回は大盛況だった。ところが創設者は急逝する。その功績を称えて、第2回目から有馬記念と改称するのに誰も反対はなかった。今年で62回である。これに勝った馬が、キタサンブラックである。売れ残った数百万の子馬だった。それが18億8千万円、歴代1位の賞金を獲得し、引退したのである ◆正月明けると、プロ野球の、「燃える男」「闘将」、星野仙一死去のニュースが飛び込んだ。あれっと思った。闘病の噂もなく、野球殿堂入りのニュースで、元気なスピーチで話題を残していた。選手の時も監督時代も、とにかく話題の多い人だった。大学は明治、当時東京六大学は華やかだった。ところが星野仙一、一度も優勝はなかった。中日に入団すると巨人戦には闘志をむき出しにした。特に、長嶋茂雄、王貞治の二人の大打者への投球はテレビ時代に突入した野球中継の華だった。監督は古巣の中日から。巨人の王監督への拳を突き出すジェスチャーでの抗議は話題になった。あと阪神、楽天へ。東日本大震災の宮城を勇気付ける日本シリーズ制覇。監督として有終の美を飾っている ◆北島三郎、流しのサブちゃん、本格的な歌手になる前、新宿を流していた。それが歌のヒット、馬主になってキタサンブラックと出会うのである。星野仙一、ドラフトでは巨人との約束があったのに、巨人は田淵幸一を外すと、島野修を指名。直後、星野は「島と星を書き間違えたんではないか」と憮然。これがプロ野球界へのスタートだった。年末年始、競走馬界とプロ野球界の大きな話題で、戊戌、新しい年へ突入したようである。

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2月 9日(金)乾坤一擲    青葉区版418号

「我輩は猫である」の、文豪・夏目漱石の相撲好きは有名である。門下生が「どうして相撲が好きなのか」と聞くと、「相撲は芸術だよ」と言って、「日頃の猛練習によって、筋肉の全てを自由自在に働かせることができる。数秒のわずかな間に、相手の手に応じて妙技を奪って勝負をつける。負けるにしても、奇麗にパッと負ける。これが実にいい。一つの技巧だね。芸だね。相撲にはそういう芸術的なところがある」と答えているのだ。両国・回向院の境内で晴れた日の10日間だけ行われていた相撲興行は楽しみに通った。そこに明治42年、国技館が建てられた。翌年、漱石は、伊豆の修善寺温泉で大量の血を吐き、九死に一生をえている。その後、国技館で春場所を楽しんで、この世を去った。作品には数々の相撲の話が出て来る。希代の相撲見巧者だった。今ならば、横綱審議会、評議委員会、このあたりに夏目漱石議長、ピタリのようである ◆立行司・40代式守伊之助、酒の席での失態で相撲界を去る。式守伊之助というと、やはり19代だろう。「ひげの伊之助」、昭和33年(1958年)の秋場所の出来事だった。その年、翌年4月の皇太子ご成婚に合わせてテレビが各家庭に揃いだした。プロ野球では巨人の新人・長嶋茂雄の4打席4三振の開幕中継は日本中を沸かせた。8月には早稲田実業の王貞治投手が巨人入団発表。相撲は栃錦・初代若乃花の、栃若時代の全盛である。相撲の中継も大人気だった。その年の秋場所初日、相撲史に残る行事差し違い事件が起きたのだ。横綱・栃錦と前頭七枚目・北の洋の一番。北の洋の速攻の寄りで、つまった栃錦が土俵際で突き落とし。両者同体で土俵下に落ちた。伊之助は軍配を栃錦に上げたが、行司差し違え。北の洋の勝ちと判定された。これに伊之助は服しない。一歩も引かない。五分たち十分たっても、軍配をあげ直さず、白いひげをふるわせて抗議しているのだ。観客席からは「伊之助、頑張れ」の声。これによって、12日から13日まで出場停止処分。再び土俵に登場した時、国技館がゆらめくほどの拍手で迎えたのである。「正直にものいひて秋ふかきかな」久保田万太郎の句である。

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3月 9日(金)乾坤一擲    青葉区版419号

韓国・平昌での冬季オリンピック、日本は金4、銀5、銅4、合計13、の好成績を残した。長野の10を越えた。韓国での冬季五輪に、雪は大丈夫か?施設は?とちょっと心配だったが、始まると日本中が燃え上がった。怪我で心配した羽生結弦の見事な復活劇、男子シングルス金メダル、これが火を点けた。冬季五輪、シングルス二連覇、は66年ぶりの快挙である。羽生結弦、国民栄誉賞が今話題になっている。翌日、小平奈緒がスピード女子初の金メダル。2位の韓国・李相花と健闘をたたえ合うシーンは胸を打った。続く金は女子パシュート。これは「追い掛け」、「追跡」という競技。初めて見る。チームプレイだ。自転車競技にもある。風の抵抗の少ない小柄な日本人には有利。高木美穂が引っ張ってオランダを破り金。最後は新種目のマススタート。ルールはよくわからないが、最周の直線で抜け出した姉の高木菜那が五輪新種目の初代金メダリストになった ◆話題を集めたのは女子カーリングだろう。このカーリング、どうも、見ていて、あまり引き付けるものはない。あのブラシのようなもので氷をゴシゴシと掃き、声を掛け合う。結果はよくわからない。スポーツとは思えないのだが、発祥は15世紀、英国、スコットランド。平らな川石を氷の上に滑らせていた。日本で行われた1998年の長野五輪で初めて採用されている。「氷上のチェス」と呼ばれ、理詰めの試合を展開していく。高度な戦略が必要なのだという。攻める側になったとき、集まって話し合う。決める時の日本チーム、「ソダネー」の掛け声が、北海道訛りで大変な話題になった。要するに、このスポーツは氷上のゴルフなのだ。やってる人たちだけで楽しむもの。休憩中の「モグモグタイム」、苺の売れ行きが伸び、地元北見の菓子店が販売するチーズケーキ「赤いサイロ」に注文が殺到するという、日本女子カーリング銅メダル獲得の裏側で、こんな話題が拡がっている ◆ただ、この平昌五輪は、南北朝鮮の大きな動きの前触れでもあった。制裁に耐えられなくなった、北の金正恩、板門店での南北首脳会談に合意した。まだまだ朝鮮半島から目を放せなくなった。

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4月13日(金)乾坤一擲    青葉区版420号

舞鶴市長、土俵の上で挨拶していて倒れてしまった。観客席にいた女性がすぐに土俵に上がった。周りを押しのけて救命処置を始める。「女が土俵にあがっていいのか!」と、会場は騒然。あわてた若手行司が、「女性の方は土俵から降りてください」というアナウンスをしてしまった。人命が優先だろう、と騒ぎが始まった。4月4日、大相撲の春巡業、京都府舞鶴市でのことだ。相撲界では土俵は女人禁制なのだ。以前、大阪府太田房江知事が府知事賞を渡したいと申し出て協会から断られたことがあった。この時はちょっとした話題で、すぐにおさまった。相撲愛好家の内館牧子などはむしろ太田の行動に反対していた ◆女人禁制といえば富士登山もそうだ。富士吉田の旧登山道を歩いて行くと二合目あたりに「富士山遥拝所女人天上」という所がある。ここで女性は富士を拝んで引き返した。富士山のご神体は木花咲耶姫命。女性が近づくと焼きもちを焼くからといわれていた。解禁されたのは明治5年(1872年)。ところが富士山に女性が初めて登った記録が江戸時代にある。天保3年(1832年)、勇敢な女性がいたもんで、名前は「高山たつ」。女性富士山初登頂者としては見事な名前である。男装して登っている。当時の状況から、これは「重罪人」に等しいのだが、少しも騒がない。粋な江戸っ子たちはよくやったとこの快挙を称えている。平成の今、土俵に救命のために上がった女性たちを制するアナウンスの後、大量の塩で禊をするなんて、あきれかえって、このところ不祥事続きの相撲協会への抗議はやまない ◆相撲の歴史は1500年、日本書紀にも相撲のことが出て来る。そこには女は土俵には上げないという記録はない。女相撲も盛んで人気があった。女人禁制、これはどうも明治に入ってから比較的新しく取り決められた、日本相撲界の動きのようだ。相撲協会も土俵の女人禁制を頑なに踏襲するというのなら、評議委員長に女性の池坊保子を選出しているのがよくわからない。土俵上の女人禁制性反対運動に、全国の「すー女」たちよ立ち上がれ!である。

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5月18日(金)乾坤一擲    青葉区版421号

あれは昭和34年、今の天皇皇后両陛下の世紀のご成婚の年だった。熊本の小さな町から市内の高校へ進学することになった。汽車通学、これは生まれて初めての経験だ。駅前から市電に乗る。すぐに席を探した。ところが周りの先輩たちの雰囲気が違うのだ。誰も座らない。みんな立っている。席は一般市民の皆さんに使ってもらうもの。高校生は座るもんじゃーあない。これは朝の通学の時だけではない。いつでもどこでもそうだった。「いなかもん」の新入生には、これはショッキングな出来事だった。高校生になるというのはこういうことなんだ、と誇らしく思って、当然のごとく座席の前では立ち続けた。昭和38年、上京して大学に通うまで、乗り物では座席は譲るという習慣が身についていたのだ。ところが、東京駅から山の手線に乗り換える時、驚いた。学生服の高校生たちが乗り込むと、ドッと座席に座り込む。オヤッと思った。大都会というのはこういうことなのか。それ以来ずっと電車に乗ると若者達の行動を観察する癖がついてしまった ◆今年のゴールデンウイーク。電車で外房に行った帰りだった。成田線、乗り込んだら、少し混んでいた。するとわれわれ老夫婦にサッと席を譲ってくれる人があった。一人は女性で、東南アジア系の若い人、日本語はうまく喋れないが、ニコッと笑って立ってくれた。もう一人は日本人高校生男子、並んで座っていたので、東南アジア系の女の人が席を立ったので自分もという感じだったが、素直そうな少年だった。ところが右横前に、立ってビールを紙コップに注ぎながら大声で話しているサラーリーマンがいた。40歳前後、会社の上司の悪口。ワーワーと、あたりは構わない。ビールを飲みまくる。会社ではいいポジションだろう。目が合ったので、ひとりをを睨みつけるがやめない。電車内でのマナーに感心したのは東南アジア系の若い女性と、高校生らしき日本の少年だったのに、である ◆「徒弟制度の世界はモノもつくってきたけれど、ヒトもつくってきたんだ」(永六輔著・職人)日本の企業の戦後の発展振り、あちこちに高層のビルが建ち並ぶ。それなのに、ヒトを作るのはどこかに忘れてしまったのではないか、と旅先の電車のなかで思ったものだった。

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6月 8日(金)乾坤一擲    青葉区版422号

最近、驚いたのは、フィリピンで「財宝探し」のために違法に逮捕された、日本人四人とフィリピン十三人のニュースだ。5月31日のこと。そういえば、山下奉文の、ヤマシタゴールド、「山下財宝」と呼ばれる旧日本軍の埋蔵金がどこかに眠っているという噂、微かな記憶はある。山下奉文という人物の突然の登場、今どき、「どうして?何で?」と驚いてしまった。終戦時、フィリピン方面の軍事司令官で、マレーの虎、と呼ばれていた陸軍大将である。それが東南アジアから徴発した金塊をシンガポールからフィリピンで中継して日本本土に海上輸送をしようとして埋めたというのだ。70年前の、600兆円にも上るといわれる都市伝説である。それを発掘するために日本人男女四人。その中に、通訳をしていた15歳の少年もいたという。掘った穴は結構大きく深い ◆埋蔵金というと、徳川埋蔵金だ。江戸城が無血開城となった時、明治政府はお金がない。幕府の御用金を資金源としてあてにしていた。ところが金蔵は空。徳川再興を狙って、幕府のだれかがどこかに隠したと判断した新政府は御用金探しに奔走した。探索の手は、大政奉還当時、勘定奉行だった小栗上野介忠順に伸びていった。上野国に隠遁していた忠順に「幕府の金を持って逃げた」という疑いが掛けられた。彼が斬首された後、「金は赤城山に埋められた」と信じた者が、何人も発掘を試みている。ところが掘り当てたという記録はない ◆歴史の転換期にはこういった埋蔵金の伝説がよくある。「かごめかごめ」というわらべ歌は徳川埋蔵金暗示してるというのだ。「かごめかごめ」は「籠目籠目」、籠の網目の一つは六角形で、徳川家ゆかりの寺を線で結ぶと籠の目の形になる。そして「籠の中の鳥」は、「籠の中の鳥居」、徳川家ゆかりの寺の中心にある日光東照宮を指している。徳川埋蔵金は日光東照宮にあると暗示しているという訳だ ◆この6月12日、歴史的な米朝会談がシンガポールで開かれる。「山下財宝」の輸送進路とされていた所だ。北朝鮮の初代は金日成、抗日戦の伝説的英雄だった。ところがソ連が世に出したのは替え玉の金成柱という青年大佐。その疑惑の金日成の三代目金成恩が、会談滞在費の外貨に困ってるという、歴史の転換期の妙な噂がある。

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7月13日(金)乾坤一擲    青葉区版423号

あれは2年前のことだった。朝早く「江戸ツアー」と称して、電車で皇居に出かけた。東京駅から歩いて、二重橋方面に向かう。このあたりは前に来たという記憶がある。昭和35年、そう修学旅行だ。あれ以来ここらあたりはあまり知らない。 内堀通りを左へ行って日比谷公園の方向、馬場先門近くに向かう。と、そこに銅像があった。鎧兜に身を固めた武将である。楠木正成。おやっと思った。このお方は後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府を倒した張本人。皇位継承で騒動が起きて、北朝と南朝に分かれる。楠木正成は南朝である。話し合いがついて北朝が主流となって行くのが教科書の歴史的事実。それがどうしてここに?この楠木正成像は明治23年、高村光雲等が製作している。皇居の主は北朝系である明治天皇なのだから、不思議に思ったのだ ◆上野公園の西郷隆盛像も、明治10年のあの騒動を思ったら、江戸のど真ん中に薩摩の西郷ドン、どうしてここに?奇妙な建造物なのだ。完成したのは明治30年。これも高村光雲の作。岩倉、大久保らがひきいる明治新政府に刃向った薩摩士族の大将の銅像、ここがふさわしい場所なのか?除幕式に出席した未亡人の糸子、ひと目見るなり、「こげなお人じゃなかったこてえ!」とあたり構わず叫んだ。「浴衣ば着て犬連れて散歩なんかはしちょらんだった」と銅像に不満タラタラ ◆これは一体なんなのか。調べていたら「フルベッキの写真」なるものにぶち当たった。アメリカの宣教師のフルベッキを囲む46人の幕末の志士たちの写真である。写ってるのが、西郷隆盛、大久保利通、勝海舟、坂本竜馬、高杉晋作、伊藤博文、というのだから穏やかではない。真中にいるフルベッキの右足の下あたりにいる大室寅之祐という若者がどうも何か鍵を握ってるようなのだ。何故、その原版は日本にはなく外国にあったのか ◆西郷隆盛は薩摩だが、熊本の菊池一族で、菊池は南朝の後醍醐天皇の家臣。南洲の号はそこから来ている。明治維新は静かに天皇の係累を北朝から南朝に変えてしまう、そういう作業であって、ことが済むと、形跡をすべて消してしまった、という不思議な革命だったのだ。

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8月10日(金)乾坤一擲    青葉区版424号

北京オリンピックを一週間後に控えた8月2日未明漫画家の赤塚不二夫さんが亡くなった。72歳である。後半はアルコール依存症で身体はボロボロ。私生活は破天荒だったが、その才能は異色だった。マンガのデビューは、1962年(昭和37年)、「週刊少年サンデー」、『おそ松くん』。連載を開始すると一躍人気作家になった。六つ子の、おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松が主役で、これにからむのが、チビ太、イヤミ、ハタ坊などの脇役たち。イヤミの「シェー」は浩宮・現皇太子殿下がお気に入りで、それを真似ている写真が話題になった。大学生の間でこれがもう大変な人気で、発売されるとすぐに売り切れた。当時は大学紛争の真っ最中。どういう訳かこのマンガはそれぞれのアジトで奪い合って読まれていた。ジャズピアニストの山下洋輔さんも学生時代、妹の持っていた「おそ松くん」を読んで、食べていたご飯を吹き出して大笑いした。フジテレビ系のお昼の人気番組「笑っていいとも」の総合司会者・タモリの才能を、無名時代から認めていた山下洋輔さんが新宿の「ジャックの豆の木」というバーに連れて行って、そこで赤塚不二夫さんに紹介したという話は有名である。タモリという奇妙な芸をする人物を、初めてテレビで見た時、赤塚不二夫さんが一緒だった。ひとりでイグアナを演じていて、動きの面白さ、プロにはない新鮮な強烈な笑いだった。片目に黒い眼帯をしていた。新宿のバーでの出会いがタモリの人生を変えてしまったのだ。四ヶ国語マージャン、中国語のターザン、韓国語で田中角栄の演説を真似る森田一義を赤塚不二夫さんは気に入ってしまった。タモリの本名は森田一義。早稲田を出て九州の大分県で、ボーリング場の支配人をやっていた。「この男を九州に帰さない!」と自分のマンションに住まわせる。その才能に惚れ込んだ赤塚不二夫さんと不思議な関係がスタートする。人気漫画家だから豪邸に住んでいると思いこんでいたのだが、赤塚さんは事務所に寝泊り。それを知ってもタモリはマンションに住み、我が家のごとく振舞っていた。デビュー前である。各局に売り込みにかかる。プロデューサーには大受けするんだが、ネタが際どすぎて放映できないとなかなか採用してくれない。それでも赤塚さんは自分の番組にタモリを引っ張り出していた。ある時、黒柳徹子さんが偶然それを見た。すぐ赤塚さんに電話をかけた。タモリが黒柳徹子さんの「徹子の部屋」に出演したのは1978年8月である。これを機にテレビの世界でタモリの才能がブレークするのである。それ以来、年末最後の「徹子の部屋」の出演者はタモリ。そこで新作の芸を発表する。赤塚不二夫さんはタモリの大恩人なのだ。タモリはそれには「あなたが私の才能に惚れたんだから」と主張し、「俺は絶対お礼を言わないよ」と言っていた。赤塚さんはニコニコしているだけ。凄い師弟関係である。葬儀の弔辞はタモリが読み上げた。名文だった。最後には、「赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです。合掌。森田一義」。そのシーンをテレビで見る限り、文字が書いてあるようには見えない。あれがアドリブだとすると、前代未聞。あんな心のこもった弔辞を聞いたことがない。その才能を世に送りだした恩師の赤塚不二夫さんも天国で満足の笑みを浮かべていたに違いない。

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9月14日(金)乾坤一擲    青葉区版425号

あれは昭和34年だった。高校時代、下宿生活のつれづれに、手にした本が、高木彬光著、「成吉思汗の秘密」。中身は何と、成吉思汗は源義経だという、推理小説風の不思議なストーリーなのだ。神津恭介という東大医学部の助教授が、入院中の暇つぶしに、義経=ジンギスカン説の推理を始める。これには心が躍った。平泉で弁慶とともに追っ手に敗れ、自害して果てた義経は生きて、成吉思汗になっていたというのだから穏やかではない。「京の五条の橋の上…」、牛若丸ファンとしては見逃せない情報だった ◆江戸時代、林羅山は、「義経衣川では死せず、逃れて蝦夷島に至る…」と記している。新井白石もアイヌ民話の中に「ホンカン様」信仰というのは義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析。さらに、あの水戸のご老公、水戸黄門さんも、「大日本史」の編纂事業で蝦夷地を探索させている。派遣団は蝦夷地に、義経・弁慶にちなんだ地名が多いと報告している。幕末にやってきたシーボルトも「日本」という著書に、蒙古の生活風習に日本のものとそっくりなものが残っていると指摘し、幕府には、「義経=ジンギスカン説」を正史として認めるように薦めたというのだ ◆蒙古と日本とのこういった宿縁というもの、何となく感じとるのは、今の大相撲の世界だろう。日本人の稀勢の里がやっと七十二代横綱になったが、その前の、朝青龍、白鴎、日馬富士、鶴竜、と四人は蒙古。他に、玉鷲、逸ノ城、荒鷲、千代翔馬、貴ノ岩、照ノ富士、錚々たるものだ。友綱部屋を預かる師匠の友綱親方、旭天鵬は蒙古から入門した3ヶ月後に、稽古が辛くてモンゴル大使館に逃げ込むというエピソードを残し、親方になった。相撲の世界の「蒙古襲来」は、神風は吹かず、上陸に成功しているのだ ◆「成吉思汗」という名前の由来は、静御前の義経を思う舞、「しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今に なすよしもがな」。蒙古相撲というは、義経が日本の相撲を手ほどきした。これらが「成吉思汗の秘密」を読んで分かったことだった。

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10月12日(金)乾坤一擲    青葉区版426号

九月場所は、稀勢の里に注目していた。去年の三月場所、照ノ富士との優勝決定戦に勝ったが、傷めていた左肩を悪化させてしまった。その後、土俵にあがっても思うように相撲が取れない。休場が続く。この九月場所に、進退を賭けた。その土俵を審判席から見つめる、平年寄りに降格した貴乃花親方の姿がある。あの平成の大横綱が、弟子たちの不祥事で、日本相撲協会との抗争を取り下げた。一兵卒となって、出直す、という決意の、土俵下。土俵の上には、再起を賭ける稀勢の里。館内は沸いた。それに応えて、稀勢の里、二桁の10勝をあげた ◆これで相撲界も少し静かになるんだろう、と思っていたら、突然、貴乃花部屋解散、親方引退のニュースである。日本相撲協会とは話がついていたんじゃないのか?貴乃花親方は、自ら臨んだ相撲界での下積み生活が嫌になったのか?ところがどうもこれは例の貴ノ岩強打事件がまだからんでいるようなのだ。貴乃花親方が内閣府に提出した訴訟状は取り下げたけれども、あれは事実無根だったと、認めろ、と相撲協会から言って来た、という。それは従うわけにはいかない。だから年寄りを引退します、と記者会見の貴乃花親方である ◆訴訟状には「モンゴル互助会」の実態が書かれているのだ。日馬富士は「八百長をOKしろ。そうしたらお前を横綱にしてやる」。貴ノ岩が断ると殴られた。白鵬もこの貴ノ岩に負けている。これは地力があるな、と警戒していた。貴ノ岩へ何度も連絡して来ている。貴乃花親方は、こういった「モンゴル互助会」の誘いを、断るように言って来た矢先の事件だった。日本相撲協会は、問題が表に出ては困る。日馬富士だけでなく、白鵬、鶴竜、現場にいた三横綱がいなくなれば、相撲の興行がなりたたなくなるではないか。訴訟の内容は事実無根と認めさせ、隠蔽を図ろうとした、のである ◆貴乃花親方は「ガチンコ相撲」の権化である。兄若乃花の、勝てば優勝、横綱昇進の決定戦で、親方の父の「わかってるな」、というひと言で、勝ちを譲った。ここからである。親子兄弟の間がおかしくなるのは。

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11月 8日(木)乾坤一擲    青葉区版427号


昭和43年だった。大学を卒業してサラリーマン生活をスタート。ところがその夏突然十二指腸胃穿孔で大手術。不摂生の結末だった。胃が三分の一になってしまった。食事が大変。アパートの一人暮らしで、暮は知り合いの家にお世話になった。そこの二階の大広間に16型カラーテレビが置いてあるのだが、誰も見ない。一人で見ていたら、渥美清が出ている、面白いドラマに出会った。「男はつらいよ」。フジテレビの木曜日、夜8時から45分だった。テンポのいいポンポンとでる的屋の啖呵。渥美清、車寅次郎、「寅さん」の真骨頂の演技だった。毎週木曜日の夜の楽しみだった。ところがその人気者寅さん、団子やさんの周辺で、「沖縄でハブに食われて死んでしまった」と噂になって、そのドラマは終結した。寅さんを何でそんな所で殺すんだ。フジテレビには視聴者から多くの抗議が殺到した。それならばと松竹は映画化を企画した ◆そもそもこの寅さんのストーリーは、映画監督の山田洋次 がコメディアンとして「夢であいましょう」などで大活躍中の渥美清に興味を持ったことから始まる。落語の話のような生き様と、下町の路上で覚えた的屋の啖呵。「けっこうけだらけ猫灰だらけ」「四谷赤坂麹町、チャラチャラ流れる御茶ノ水、粋な姐ちゃん立ち小便」。ホテルの部屋で渥美の話を聞きながら「フーテンの寅」のあらすじが出来あがった ◆映画化第一作の作品の封切は昭和44年8月27日。ところが試写会は不評だった。山田洋次監督もちょっと期待はずれ。肩を落として会場を出る。朗報は封切られてしばらくたってからだった。「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。帝釈天で産湯を使い、姓は車、名は寅次郎。人呼んで風天の寅と発します。」松竹本社に日本中の封切館から、観客が増え続けて行く情報が続々と入って来る ◆「男はつらいよ」は49作まで続いた。そのシリーズの50作目『「男はつらいよ」50周年プロジェクト』の発表が行われた。妹さくらの倍賞千恵子が、「おにいちゃんはどこかに生きてるんです。それはみなさんの心の中なんでしょうね」と話していたのが印象的だった。

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12月13日(木)乾坤一擲    青葉区版428号

今年のノーベル賞、本庶佑京都大学教授が、医学・生理学の部門で選ばれて、12月10日、ストックフォルムでの授賞式に臨んだ。日本人としては26番目の受賞者。去年の文学賞のカズオ・イシグロを日本人だとすると、27人目となるのだが。国別の受賞者数は上から、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本は7番目である ◆ノーベル賞は、1833年、スウェーデンのストックフォルムで生まれたアルフレッド・ノーベルが創始した。ノーベルは19世紀の後半、ニトログリセリンで爆弾を発明している。この時代は開発の時代。山をきりひらくような大規模な工事現場が活躍の場。一方、世は戦争の時代でもあった。ダイナマイトと呼ばれたこの爆薬は戦争の道具にも使われる。ノーベルはたちまちのうちに億万長者になった。世間は、「戦争成り金」、「死の商人」と噂した。自分の発明したものが戦争に使われることに苦しんだ。そこで自分が死んだあと、この莫大な遺産を人類の貢献に使うと決意する。1896年12月10日、63歳の生涯を終える。ノーベル賞の授賞式はノーベルの命日、12月10日なのだ。ストックフォルムで1901年から始まった ◆第1回目の受賞者にレントゲンがいる。ところが意外なことに、発明王エジソンがいない。生涯に発明した特許は2000以上、蓄音機、映写機など現在の暮らしを支えているもの数多くあるのに、である。飛行機を発明したライト兄弟も受賞していない ◆色々と謎も残るのだが、世界最初の国際的な賞なのは間違いない。今年の授賞式、紋付羽織袴の本庶佑教授の心意気を賞賛したい。かつて川端康成も文化勲章を首に下げて和装で臨んでいる。「日本で研究してきた心構え」と本庶佑教授はその理由を語っている。


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