8月10日(金) | 乾坤一擲 青葉区版424号
北京オリンピックを一週間後に控えた8月2日未明漫画家の赤塚不二夫さんが亡くなった。72歳である。後半はアルコール依存症で身体はボロボロ。私生活は破天荒だったが、その才能は異色だった。マンガのデビューは、1962年(昭和37年)、「週刊少年サンデー」、『おそ松くん』。連載を開始すると一躍人気作家になった。六つ子の、おそ松、カラ松、チョロ松、一松、十四松、トド松が主役で、これにからむのが、チビ太、イヤミ、ハタ坊などの脇役たち。イヤミの「シェー」は浩宮・現皇太子殿下がお気に入りで、それを真似ている写真が話題になった。大学生の間でこれがもう大変な人気で、発売されるとすぐに売り切れた。当時は大学紛争の真っ最中。どういう訳かこのマンガはそれぞれのアジトで奪い合って読まれていた。ジャズピアニストの山下洋輔さんも学生時代、妹の持っていた「おそ松くん」を読んで、食べていたご飯を吹き出して大笑いした。フジテレビ系のお昼の人気番組「笑っていいとも」の総合司会者・タモリの才能を、無名時代から認めていた山下洋輔さんが新宿の「ジャックの豆の木」というバーに連れて行って、そこで赤塚不二夫さんに紹介したという話は有名である。タモリという奇妙な芸をする人物を、初めてテレビで見た時、赤塚不二夫さんが一緒だった。ひとりでイグアナを演じていて、動きの面白さ、プロにはない新鮮な強烈な笑いだった。片目に黒い眼帯をしていた。新宿のバーでの出会いがタモリの人生を変えてしまったのだ。四ヶ国語マージャン、中国語のターザン、韓国語で田中角栄の演説を真似る森田一義を赤塚不二夫さんは気に入ってしまった。タモリの本名は森田一義。早稲田を出て九州の大分県で、ボーリング場の支配人をやっていた。「この男を九州に帰さない!」と自分のマンションに住まわせる。その才能に惚れ込んだ赤塚不二夫さんと不思議な関係がスタートする。人気漫画家だから豪邸に住んでいると思いこんでいたのだが、赤塚さんは事務所に寝泊り。それを知ってもタモリはマンションに住み、我が家のごとく振舞っていた。デビュー前である。各局に売り込みにかかる。プロデューサーには大受けするんだが、ネタが際どすぎて放映できないとなかなか採用してくれない。それでも赤塚さんは自分の番組にタモリを引っ張り出していた。ある時、黒柳徹子さんが偶然それを見た。すぐ赤塚さんに電話をかけた。タモリが黒柳徹子さんの「徹子の部屋」に出演したのは1978年8月である。これを機にテレビの世界でタモリの才能がブレークするのである。それ以来、年末最後の「徹子の部屋」の出演者はタモリ。そこで新作の芸を発表する。赤塚不二夫さんはタモリの大恩人なのだ。タモリはそれには「あなたが私の才能に惚れたんだから」と主張し、「俺は絶対お礼を言わないよ」と言っていた。赤塚さんはニコニコしているだけ。凄い師弟関係である。葬儀の弔辞はタモリが読み上げた。名文だった。最後には、「赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私もあなたの数多くの作品のひとつです。合掌。森田一義」。そのシーンをテレビで見る限り、文字が書いてあるようには見えない。あれがアドリブだとすると、前代未聞。あんな心のこもった弔辞を聞いたことがない。その才能を世に送りだした恩師の赤塚不二夫さんも天国で満足の笑みを浮かべていたに違いない。
あおばタイムズ http://www.ningenkobo.com
|
|