社論・乾坤一擲管理
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1月 7日(金)乾坤一擲

去年の暮、天皇陛下77歳の誕生日の会見だった。「クニマス」が70年ぶり発見されたのは「さかなクン」らの力によるものだと突如「さかなクン」の名前を出されたのだ。一瞬、何のことだろうと思った。「さかなクン」というのはさかなの帽子をかぶったあのタレントの?それがどうして天皇陛下からその名前が出たのか。門外漢には何のことなのかわからない。翌朝、テレビは「さかなクン」の「感慨無量・ギョロギョロ」会見で大騒ぎとなった。「クニマス」の発見のきっかけを作ったというのだ。「魚マニアのタレント」というイメージで、軽くあつかわれているが、どうしてどうして東京海洋大客員准教授の肩書きを持つ。イラストレーターでもある。その「クニマス」発見は、京都大学の中坊徹次教授が「クニマス」のイラストを「さかなクン」に依頼したことがきっかけだったのだ。この「クニマス」は秋田県の田沢湖に1940年頃まで生息していた。絶滅したのはその田沢湖を利用して水力発電所が建設され、酸性の強い水が大量に流れた。「クニマス」などの魚は絶滅した。今なら環境問題として大きく扱われるところだ。戦時体制のまっただなか。まったく還りみられない。70年もたって、山梨県の西湖で発見された。これはもう、大変なことで、その道の研究者でもある天皇陛下もおおおいに感動されたのだ。「クニマス」のイラストを描くために、その「クニマス」の近縁種といわれる「ヒメマス」を全国からとり寄せた。このあたりが「さかなクン」の非凡さだ。西湖から届いたものの中に「クニマス」に似た魚がいると「さかなクン」は気がついた。やはりこれが絶滅したと言われていた「クニマス」だったのだ。「さかなクン」の貢献はちょっとしたきっかけだったのではない。京都大学でも「クニマス」の研究を続けて来た様子はない。だから、その大学のスタッフでも何でもない「クニマス」のイラストを依頼された「さかなクン」が発見者だといってもいいのである。「さかなクン」は小学生の時から魚に興味を持っていた。まわりが漁師などの漁業関係者ではない。父親はプロの囲碁士である。水産関係の大学を受験するも失敗。以後、独学である。マスコミへの売り込みはユニークだ。あのスタイル。大学の研究室ではそうはいかない。行動に制約はない。イラストも専門はだし、魚の料理もプロ級。「さかなクン」が朝日新聞に投じた「いじめ」に関するエッセイは大きな反響を呼んだ。人間のいじめも魚の世界に似ている。群がるメジナを狭い水槽に入れておくといじめが始まる。仲間はずれにするのだ。ところが大海原ではこんなことはない。だから、人も狭いところでうじうじしないで、みんな広い海へ出よう。こいう内容の「いじめ」に関するエッセイだった。魚を知り尽くしている「さかなクン」ならではのわかりやすい文章の「いじめ対策」提言が評判になったのだ。「さかなクン」の存在は、教育とは何かという問題に一石も二石も投じたといっていい。さらにこの大発見のことを、「さかなクン」の功績だと、国民の前でお話になった天皇陛下の平成22年の誕生日の会見は、皇室と国民との距離を一段と身近に感じさせるすばらしい会見だったと思うのだ。

2月11日(金)乾坤一擲

大相撲八百長発覚のニュースには驚いた。その生々しいやりとりが携帯メールの履歴に残っていたのだという。動かぬ証拠となった。「削除しましょう」と連絡しあっていたが、警視庁のコンピュータ技術陣をあざむくことはできなかった。削除したものを復元させてしまった。今まで何やかや言われていたが、相撲の八百長は「あった」のである。皮肉にも、そもそも強いものがわざと負けるという言葉の「八百長」の語源は、相撲の世界にある。明治の初めのこと。伊勢ノ海親方はめっぽう囲碁好きだった。ところが腕はまるでだめ。うまくならない。ところが出入りの八百屋の長兵衛。お調子もので、口がうまく、部屋に行くたびに親方の囲碁の相手をつとめ、上手に「勝たせて」やっていた。それですっかり親方のお気に入りとなり、相撲桟敷茶屋の権利を分けてもらうまでになった。その店は「八百長」と名付けられた。ところが、ひょんなことで八百屋の囲碁の実力を知ってしまった。「そうだったのか」、「ああ悔しい」。店の権利まで分けてやってしまった。「畜生!あの八百長め!」と伊勢ノ海親方は年中愚痴っていたのだという。そこから、「強いものがわざと負けてやる」という意味で使われるようになった。これは相撲の世界に限らない。大相撲の八百長の問題は、週刊誌と協会の年中行事だった。ところが訴訟沙汰になっても証拠不十分で協会側の勝ちとなり、うやむや。八百長をやったとする証拠確保は難しい。ところが、今回それが携帯電話のメールから足がついたのだ。生々しいやりとりの記録が出てしまった。これには放駒理事長も「驚天動地だ」と思わず天を仰いだ。小紙も以前から大相撲の八百長疑惑を追求して来た。おかしいと思ったのは貴乃花と若乃花の同部屋・兄弟優勝決定戦での対決だった。1995年(平成7年)11月場所。あれば明らかに兄の若乃花の横綱昇進への援護。翌年の初場所、今度は同部屋の貴乃浪との優勝決定戦で起きた。貴乃花は土俵においつめながら「河津掛け」という奇襲で負けている。この二つの取り組みともテレビで観戦していた。あきらかにわざと強いほうが負けるというシーンだった。対戦前、親方から、「光司、わかっているだろうな」と意味深なことばを投げかけられたのだと巷間ささやかれている。その後、尊敬する父親の親方との関係が、急速におかしくなっていく。あんなに仲の良かった兄の若乃花に対する態度も一変。潔癖な貴乃花は親兄弟でもこれは許せなかったのだ。今回発覚したのは十両の力士と幕下。ぎりぎりの十両から幕下転落のグループだ。この境、給料があるかないか、である。十両にとどまると103万円の給料があり、幕下に落ちると場所手当てとしての、15万円しかもらえない。2ヶ月に一回だから、給料にすると7万5千円。この差、まるで天国と地獄である。このあたりのところで星のやりとりが行われ、互助会が生まれたようだ。「ガチンコ」というのは真剣勝負。「注射を打つ」これは「八百長」の隠語である。こういう言葉があること自体疑わしい。ちなみに、柔道や剣道の試合で八百長は話題にもならない。相撲にあるのはどうしてか。これは経済学上で、すでに証明されていることである。

3月11日(金)乾坤一擲

夏の甲子園で斎藤祐樹(早実)と田中将大(駒大苫小牧)が投げあって大フィーバーしたのはついこの前だったような気がするが、もう5年もたってしまったのだ。「ハンカチ王子」とさわがれた斉藤(早大)が日本ハムに入団し、この春デビューする。あの白いハンカチの仕種は伝説的になってしまった。猛暑の甲子園のマウンドで額の汗をぬぐうと女性ファンがどっと沸いた。敵の田中は、ふてぶてしい面構え、それが「マーくん」と呼ばれた。この世代はどうしてか、いい選手が多い。高卒後、プロに入って活躍しているのが、田中(楽天)、マエケンこと、前田健太(広島)、坂本勇人(巨人)、堂上直倫(中日)である。大学にはいって今年ドラフト1位は、斉藤(日本ハム)、大石達也(早大↑西武)、沢村拓一(中大↑巨人)、福井優也(早大↑広島)がいる。ドラフト会議のあと、希望する球団でないと嫌だと言って拒否する選手が必ずいた。ところが今年はみんな、すんなりと指名の球団に行く。「ハンカチ王子」も在京球団を望んでいたのだろうが日本ハムをにこにこしながら受入れた。巨人に指名されず西武へ行くことになった清原のあの涙。もう巨人一辺倒の時代ではない。そんな中、2月25日、ハワイで与那嶺さんが亡くなったニュースが飛び込んで来た。昭和26年、日本にやって来た。デビューはセーフティバンドだ。こういうプレーを日本人は誰もみたことがなかった。バッティングも巧みだった。右に左に打ち分け、塁に出ると猛烈なスライディング。これには巨人の猛者連中も驚いた。当時の巨人の4番バッターは川上哲治。30才。この「打撃の神様」の前に与那嶺は立ちはだかったのだ。二人の首位打者争いは熾烈を極めた。アメリカの戦後の日本統治は野球が大いに貢献した。日本人は野球に熱中した。ブームは最高点に達した。ウォーリー与那嶺の功績ぱ大きい。日曜日、テレビで久しぶり「カネやん節」を聞いた。大沢親分のあの「あっぱれ」番組だ。「ウオーリー、なつかしいね。憎めない人だった。一度恐ったことがあったのだが、それは一塁ランナーになって、わからないように両手に砂をつかむ。それを2塁ベース直前で2塁手の顔にパッと投げつけるんだよ。抗議してもすましたモノ。VTRもなにもない。証拠がない。こういうことをポーカーフェイスで平気でやっていたよ」。「よし!俺もと、2塁へスライディングをやったらひっくり返って脳震とう」。与那嶺さんの日本野球への登場が本格的な「ペースボール」の幕開けになったのだ。さあ、今年のぺナントレース。「ハンカチ王子」世代がどんなプレーで楽しませてくれるだろうか。3月25日、セパ両リーグ同時開幕である。

4月15日(金)乾坤一擲
東日本大地震で関東地方は計画停電が行われ、一部で3時間ばかり電気供給が止るという事態になった。地震発生直後は、時間が経ち、準備が整えば、当然、西の電力会社から電気供給があるのだろうと思っていた。ところがそういう動きがないのだ。それは、東と西とでは周波数が違からだということがわかった。明治に入ってまず東京がドイツ製の50Hzの発電機の送電を始めた。わずかにおくれて関西がアメリカのGE製の60Hzの発電機と決めて使用したためだという。周波数が異なるのだが当時だれも疑問に思わない。こういう国は日本だけだというのだからおかしな話である。変換所で周波数を変換して送り込まなければならないが、その量は限られてしまう。変換所は3ヶ所しかないからだ。狭い日本の国土の中でこんな理不尽なことが何も論議がされなかったのだ。ひと月たった。外国の特派員たちは、震災の中で、日本人の沈着冷静な行動を賞賛している。暴動が起きない。人間の尊厳というのを日本人は失わないといって高く評価しているのだ。東と西で周波数が違うのはとんでもない、と大きな問題にもならないのも、日本人の冷静さの中に入っているとは思いたくはない。河川の多い日本は水力発電所から電力供給の歴史が始まっている。供給の地域は狭かったのだが、今は電気の使い方は広範囲だ。そうなるとどこかで周波数は日本国内は同じにすべきだったのだ。将来これは日本人の持っている高い技術力で解決しなければならない。ただ計画停電というのを体験し、電気の無駄使いをしていることに、日本中が眼を向けだしたのはいいことだ。オイルショックの昭和48年頃、ビルのネオンが制限され、都会が暗くなったことがあった。あれはいつのまにかもとにもどって、煌々と点いているのを誰も何もいわなくなった。気がついたら灯りだけでなく、自動販売機があふれ出していた。冷蔵庫を外に設置していることなのだ。いつでも冷たい飲み物がどこでも飲める。本当にこの地震を契機に生活様式を根本的に見直さなければならない。地震でもう一方で気になっていたのが、富士山である。千年前の貞観6年(864年)、三陸沖に今回と同じ地震と津波があった。その直後に富士山が爆発している。貞観大噴火である。宝永地震でも富士山は連動した。300年前だ。火山灰が江戸の街を襲った。新井白石の「折りたく柴の記」に詳しく記されている。神奈川県民はこちらも心配なのだ。3月16日夜だった。東日本大地震の直後、富士山周辺の静岡で震度6の地震が発生した。もしやと思って、東大地震研究所に電話をして聞いてみた。「今回の一連の地震と富士山噴火は何も関連はありません。今度の富士山周辺の地震で火山活動の予兆も何もありません。貞観噴火のときは東北の活火山が噴火し、富士山も連動してたんですが、今回の富士山は収束しているので問題はありません」ということだった。「地震学者の先生たちはみなさん霧島に行っておられます」と前置きして、「私も火山研究者です」、とテキパキと女性の方が対応してくれた。日本の地形はデリケートで、自然災害はいつ起きてもおかしくはない。今回の東日本大震災の被災地のみなさんへ心よりお見舞い申し上げながら、一日も早い復旧を祈るばかりである。

5月13日(金)乾坤一擲
NHK大河ドラマ・「江〜姫たちの戦国〜」(5月8日)、関白にのぼりつめた秀吉が、信長の妹・市が残した三姉妹の長女、茶々を側室に、と迫るシーンがあった。茶室である。千利休と秀吉、茶々と江。4人がこうやって会ったかどうか、忠実ではないと思うが、畳三枚の狭い茶室である。利休は、茶を飲むだけで、さまざまなしきたりと型を作った。侘び茶の精神を茶室の様式として完成させたのだという。人と人との空間がない。茶々は2人の父親を殺し、母親まで死に追いやった秀吉を心底から憎む。ところが、その茶室でついにその秀吉の側室になることを決意する。千利休の石坂浩二がいい。小紙は日本茶、お茶の愛飲家で、コーヒーなどはあまり好まないが、この「茶道」というややこしい飲み方には好感を持っていない。ところが何かの本で、「電力の鬼」・松永安左エ門は、俺の茶は、「表千家」、「裏千家」ではなく、「横千家」だ、と言っていたと知った。片手で茶碗を、むんずとつかみ、ぐっと豪快に飲むというのだ。「これだ!」わが意を得たりと、膝をたたいたものだった。松永安左エ門は、耳庵と号し、美術品蒐集家、茶人でもある。そうだとするならば、本当に粋な茶人である。その松永安左エ門氏、5月10日号の産経新聞・「産経抄」に、中部電力の浜岡原発全面停止問題に関連し登場している。電力の国家統制に抵抗し、戦後の民間九電力の体制を築いた人だ。関東大震災直後、東京に乗り込んだ。市街から電柱を一掃し、地下に配電せよ、全国の周波数を統一し、各地で電力を融通し合うんだ、 という構想を打ち出している。実現していれば今日のような首都圏の電力不足にも恐恐とすることはなかったのだ。今回の震災後の対応を見ていると、菅さんのやっていることはどうも政局にからませて、国民の人気を引くための、場当たり的な手法が多い。先の見通しというのがない。浜岡原発の全面停止も唐突なのだ。東海地震は1976年頃から、起きる可能性が高いと、学者たちが騒ぎ出している。その時、すでに浜岡原発の工事は始まっていた。三陸沖の地震では、津波が起きて原発は無残な姿になってしまった。1000年に一度の地震だった。東海地震は30年以内に起きる。その震源地の真上が浜岡原発である。だから停止するというのだ。地震が多い日本は、すでに海岸線に54もの原発を作っている。原発は日本の電力供給量の3割を締める。この未曾有の大地震が起きるまで、大半の国民は、電気は、水や空気と同じように何の心配もしていなかった。生活は総て電化で、使い方の荒さにはあきれかえるほどだった。計画停電というものを突きつけられて、少なくとも首都圏の人々は便利さの脆さに気がついたのだ。そうなると、これからの日本をどうするか、もっと大胆にとらえなければならない。それには、型どおりの「表千家」「裏千家」ではなく、松永安左エ門・耳庵的発想、「横千家」の茶道手法が、ヒントになると思うのだがどうだろう。

6月10日(金)乾坤一擲

6月1日、自民党と公明党が内閣不信任案を提出した。
翌日採決である。民主党内から、81人賛成にまわれば可決される。直前まで可決するだろうという予測だった。これは大変なことだ。こんな時期に解散になれば国際社会の信用まるつぶれ。確かに震災直後の菅首相の不手際は目立った。2日、その採決の直前、民主党代議士会が開かれる。何か根回しがあったのか、菅首相退陣すると明言し、鳩山さんも了承した。反対の流れが決まった。ところが翌朝の鳩山発言である。退陣時期をはっきりさせない菅首相を、「ペテン師だ!」となじった。採決後の岡田幹事長の発言には「嘘つきだ」と色をなしている。鳩山元首相の言葉使いは、あまりにも軽すぎるのだ。その場その場で思ったコトを言葉にして発言してしまう。既存の政治家にはない。これまでも、そのくりかえしなんだが、騒ぎにならない。渡部恒三民主党最高顧問も、テレビで、「あれは宇宙人だから…」と、苦笑い。そもそもこの元首相の生い立ちと、政治家を志したいきさつを知ると、そういう軽さも、さもありなんと思わせるものがある。民主党のスポンサーなのだと、この人は思い込んでいて、それを口にすることを憚らない。祖父は元総理、鳩山一郎。曾祖母、鳩山春子は共立女子大創始者。母親は、ブリジストン創始者・石橋正二郎の長女である。「華麗なる一族」なのだ。文京区の音羽町の大御殿で何不自由なく過ごして成長する。東京大学工学部応用化学科を卒業し、スタンフォード大に留学。ここでも宇宙人ぶりを発揮。人の妻だった、宝塚出身の現婦人と知り合い、別れさせて、結婚する。帰国後、曾祖父・和夫の作った専修大学の工学部助教授に就任。このあたりまで、まったく政治家を目指していない。弟の邦夫氏は最初から政治家になると決意し、東大法学部へ。卒業後、田中角栄の秘書になる。ところが、由紀夫氏は、宇宙から何かの声を聞いたのだろうか、大学の先生を辞めて政治家になるといいだした。それを聞いて怒ったのが大学の同僚だったあの、レスリングの松浪健四郎センセイである。「あんなやつが政治家に?」、それなら俺も、と学校を辞めてしまった。レスリングでは相当の方で、長州力、馳浩の師匠でもある。チョンマゲ頭で、森内閣不信任案への反対討論中、野次に怒って、コップの水を投げつけた事件で有名になってしまった。生まれた時から政治家になると決めていた実弟・邦夫氏。この人は先が見えすぎて、毀誉褒貶。揺れが多く、政治家生命にも翳りがでてきている。あいつより俺の方が政治家向きだと豪語した松浪健四郎センセイ、最近あまり噂を聞かない。政治家に向いてないと批判の多い鳩山由紀夫氏が粘り強く政治家としてなんやかや話題の中心にいるのはどうしてか。こいう皮肉な現象が総理大臣が次から次へと変わる日本の政治の実態ならば、今の政治の仕組みをこの辺で変えたらどうだろう。議院内閣制から首相公選制へである。首相には6年間じっくりと国政に取り組んでもらう。議員定数も減らす。衆議院は中選挙区制で、衆院、200議席。参院は100議席。東日本大震災を期に、日本の政治は本当に変わらなければ、これまでの国際社会での地位を維持していくのは難しくなっていくだろう。

7月 8日(金)乾坤一擲

震災の前後、国会で白髪混じりの短髪のぽっちゃりとした童顔の大臣をよく見かけるようになった。防災服を着て菅さんの傍らにいつもいる。これまでは存じあげないお方だ。「福島原発の跡には、10年も20年も住めない、と総理がいっていた」と、松本内閣官房参与の発言が物議をかもしたことがあった。こんがらがって、この防災服も松本といっていたので、この人のことだと思っていた。物議の主は、菅さんのブレーン・評論家松本健一氏と知ったのは、ネットで検索し、人物の仕訳けができてからだった。松本竜大臣とその周辺の人たちを「チーム・ドラゴン」と言うのだそうだ。島田紳介の相棒も松本竜介といって、似たような名前だった。漫才なら許せるが、被災地復興のための組織のネーミングではない。大臣のノリの軽さに、毒舌・伸介もあきれているのではないか。それが6月27日付で、震災復興担当大臣に昇格任命された。とたんに、変身した。就任後、さっそく大臣は、被災地へ。自分を出迎えず、部屋に後から入ってきた知事をどなりつける。「長幼の序をわきまえろ!」。別の知事には玄関でサッカーボールを蹴りこんだ。急に高圧的なのだ。旧社会党出身の二世議員。そういえば、つい最近、世代も同じような「答弁は二つだけでいい」と言って法務大臣を首になった御仁もいた。急に高い地位について、おかしくなったらしい。こういうことが続くと、あれだけ政権交代に期待した国民もだいぶしらけ気味になってしまう。本当に、民主党には「ガッカリ」という人が多い。だけれども、自民党じゃあ、「ウンザリ」なのだそうだ。政治の信頼回復にはまだまだ遠い道のりがある。ところが、こんな政治家不信の中に、気骨のある人物が現れた。現職の官僚である。経済産業省の古賀茂明氏、56歳。政治主導を掲げて政権の座についた民主党を痛烈に批判する。民主党は公務員制度改革は後退させているではないか。天下りが存在するのは、国民のために働くという本来の公務員の仕事を奪ってしまうことになるのだ。官僚たちが無能な政治家たちをしりめに利権拡大に走っている。民主党政権は、脱官僚と、政治主導を掲げたが、何も出来ていない。これは失敗である。国会では現政権の不利になるような答弁を繰り返し、仙石官房長官に恫喝された。そして「内閣官房付」という閑職で仕事が与えられない状態に置かれている。古賀茂明氏は6月24日には経済産業省から退職勧奨を受けている。海江田大臣の真意は何か確かめるまでは態度は保留するといっている。「私は九州なので、東北の何市がどこの県かわからない」、「政府に甘えるところは甘えていい。こっちも突き放すときは突き放す」、と奇妙な発言を繰り返す震災復興担当大臣とは、比較にならない人物である。どちらがやめるべきか。書き終えたとたん松本竜氏辞任のニュース。菅さんは慰留したという。やめるのはどうもこの人のほうが先だったように思うのだが。 

8月19日(金)乾坤一擲

初めて富士山に登ったのは昭和39年。東京オリンピックの年だ。富士スバルラインが開通している。五合目までクルマで行ける時代になったのだ。その時は富士吉田駅から歩いた。早暁の富士山の裾野。真っ暗だった。江戸時代の富士講、「富士信仰の登山コース」である。山小屋にはまだ人がいて灯りが点いていた。8月8日、今回もそこを歩いている。一合目の手前の馬返しまではクルマ。付近は鳥居があって神社の跡がある。往時を偲ばせる。人は少ない。今年の富士山挑戦はいつもと違った意味あいがある。東日本で大震災が起きた。この夏は電力供給が危ぶまれた。福島の原発が壊滅的な被害に遭い、水素爆発の恐怖を味わった。原発への依存度15%。この災難に日本はどう対応すべきか。われわれひとりひとり何をすべきなのか。その問いかけに対する答えを求めて今年はどうしても富士山の頂上に行かなければならないと思ったのだ。豊かさを求めて戦後の日本は、まっしぐらに駆け登って来た。それがこの震災で終止符を打たれたのだ。変わらなければならない。富士山はこの2年、五合目で台風に遭って登頂を断念している。幸い今年は好天だ。登りながら聴いているのはフランクシナトラの「マイウェイ」、小椋佳の「愛燦燦」、谷村新司の「昂」である。サムエル・ウルマンの「青春の詩」、これは歌でなく私の朗読である。これらは富士山にぴったりだった。深夜1時、五合目の小屋から出るとき、これはもう星空を見上げて「昴」である。ご来迎は「愛燦燦」。八合目から最後の山頂までの登山道を見つめながらの「マイウェイ」。胸突き八丁のところでは、「青春とは人生のある期間をいうのではない。こころの様相をいうのだ」で鼓舞された。富士山に実に合っていた。4時50分のご来迎のあと、今回は長く感じた。68歳、あせらずゆっくり歩をすすめるのだぞと言い聞かせて歩いた。山頂には10時に着いた。11時30分、下山開始。一気に馬返しまで降りた。夕方5時クルマに乗りこんで、ラジオのスイッチをいれたら、偶然だったが、ニッポン放送.「勝谷誠彦の・これがニュースだ」が耳に入って来た。ポルトガルのリスボンに行ってきたのだという。1755年リスボンで大地雲が起きている。東日本とほぼ規模は同じ。マグニチュード9.0である。津波で5万人超の死者が出ている。当時のポルトガルはスペインと並ぶ強国である。日本とは鉄砲伝来で馴染みがある。その国がこの地震にどのように取り組んだのか、これは興味のある話だった。当時の宰相、ポンバル侯爵のすばやい対応があった。疫病が広がる前に、遺体はすべて海に流せと命じた。廃墟の町の無秩序を防ぐため軍隊を配備した。強壮な若者が街から逃げるのを止め、瓦礫撤去の作業に多くの市民を駆り出すことができた。当時はこのポンバル侯爵のやり方には猛烈な反発があったが、260年経った今、その功績を讃え、ポンバル卿の銅像が建っているという。国力は回復しなかったが、国民の生活は安定し豊かな暮らしを味わっているのだそうだ。「命の立位置、いつも坂道、もうと思えば、下り坂、まだと思えば上り坂」、小椋佳の詩である。今回の富士登山で、私の心の底の片隅が徐々に変化して来ているような気がするのである。

9月 9日(金)乾坤一擲

ちょうどあの3月11日の地震のとき、国会内は審議のまっ最中だった。菅直人総理は在日韓国人からの献金問題で、窮地に置かれて立住生していた。さらに拉致事件関連グループへの献金が発覚。もう後がなかった。そこに未曽有の東日本の大地震である。首相のカネの問題はどこかへ吹っ飛んだ。菅さんは大局観には難があるが、問題をさっと摩り替えてしまう能力には長けている。原発処理で日本中が注目をしていると、「私は東工大出身。原発にはくわしいんだ」と豪語。ところが「臨界って何だ」と誰かに尋ねたらしいと噂になった。民主党の中からも「菅ではダメだ」と声があがる始末。野党から内閣不信任案が出されると大騒ぎ。小沢グループが賛成にまわる、政界再編か?とマスコミの好餌となってドタバタ劇が始った。昭和54年(1979年)、自民党の40日間抗争というのがあった。ロッキード事件やダグラス・グラマン事件で与党・自民党は選挙に大敗。何が起きたのか、「ハマコー」の議事堂のバリケード崩しが連日テレビに映し出された。経済は第二次石油ショックで大混乱、政治も混迷。今と状況がよく似ていた。その頃だった。神奈川県茅ヶ崎市に松下電器産業の創始者・松下幸之助氏が私財を投げ打って、新しい時代の政治家を育成する松下政経塾を立ち上げたのだ。幕末の吉田松陰の松下村塾に名前が似ているので注目を浴びた。大学卒の22歳から35歳までの若者を対象とて塾生を公募するという。4年間、給料20万円。その第一期生に、菅直人辞任の後を引き継いだ、第95代内閣総理大臣野田佳彦がいた。第4次中東紛争から起きた第一次石油危機、昭和47年(1972年)は狂乱物価。トイレットペーパーが一瞬のうちに店頭から消えた。7年後、松下政経塾開設の年、イラン革命が起きて、石油生産が中断。大量にイランから石油を輸入していた日本の需給は逼迫した。価格は高騰。日本の経済の危機である。デパートのエスカレータの運転中止。ネオンの自粛。テレビの深夜放送休止。プロ野球ナイターは時間を早めて行われた。「省エネルギー政策」の浸透とイランも早期に石油販売を開始し危機は脱した。今回の東日本震災のショックは、化石燃料に頼らない、原子力エネルギーに大きく傾いていた矢先、原発事故を引き起こしたことだった。さあこれからどうするか、である。日本の舵取りを任された若きリーダー野田佳彦総理大臣の手腕に期待するところは大きい。松下政経塾創設者の松下幸之助氏の薫陶を受けて政界に飛び込んだ。塾生として修行中に、石油危機から日本経済の再建を目の当たりに経験している。松下幸之助氏と同業で、東芝を建て直し、財界総理として日本の経済を再建した土光敏夫氏の存在は、塾生・野田佳彦にとっていい教材だったはずだ。「増税なき財政再建」をやり抜いた「メザシの土光さん」。国民にガマンしてもらう前に、政財界人も贅沢な暮らしは慎めと説いた。土光さん本人の生活は質素だった。日本のトップ経営者二人の「生きざま」を教訓として学ぶべしである。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」。54歳の新首相へ期待したい。

10月14日(金)乾坤一擲

小沢裁判。マスコミは大騒ぎだった。10月6日の東京地裁前。49席の傍聴席を求めて2000人が並んだ。先に元秘書3人は有罪の判決が出ている。政治団体・陸山会の土地購入資金をめぐり、そのお金がどこから出たかが問題になている。裁判では争えないと判断し、すでに検察はこの問題を不起訴にしている。はっきりした証拠がないということなのだ。小沢さんはこの問題は終ったとほっとしていたようだ。「疑わしきは罰せず」、刑事訴訟では、犯罪がはっきりと証明できいときは、被告人の利益になるように決めることをそう呼ぶ。この小沢問題もそういう判断なんだ、これも曖昧なまま決着したんだと思っていた。ところが検察審査会で審査されて、起訴相当と議決され、強制起訴となった。こういうルールはあまり馴染まないし、今まで聞いたこともなかった。この検察審査会は昭和23年に作られた制度で、議決されても法的拘束力はなかったのだが、あの裁判員制度の導入など最近の司法制度改革の中で、検察審査会の議決に強制力を持たせることになった。検察審査会のメンバーは、不特定多数の選挙権を持ってる人から11人選ばれる。法律とはなんの関係のない人たちである。検察側を特定弁護人がおこなう。その注目される裁判が今回行われたのである。小沢氏側からすると「晴天の霹靂、寝耳に水」の強制起訴だった。どう裁かれるのか、国民の目は一斉にこの事件に向けられた。そういうことでは大変歴史的な日である。小沢さんとカネの問題。というのはずっとつきまとっている。政治家として最初に師事したのが「カネは力だ。力はカネだ」の「角さん」田中角栄氏である。さまざまなカネの問題で行き着くところ、ロッキード事件でついに有罪。このあとほぼ政治生命をたたれれる。裁判中ずっと田中角栄氏をささえたのが小沢氏である。田中派は分裂。竹下派を金丸信氏と取り仕切る。その金丸氏も5億円の東京佐川急便ヤミ献金事件で失脚。このときも小沢氏はこの金丸問題の対応で奔走した。野党は宮沢内閣不信任案を提出。小沢一郎氏らは賛成にまわり、自民党を離党。新生党を結成する。1993年(平成5年)のことだった。このあたりから日本の政治の混沌が始まる。小沢一郎に政界が振り回されるのである。翌年1994年の政党助成法が成立する。国民一人当たり250円の負担。これが政党に配分される。小沢さんはこの法律を作ったとあと、政党を作り、解散し、また作る。意図的かどうかわからないが、くりかえされた。政党を解散すると助成金は宙に浮いた形になる。国庫に返金しなくていいのだ。袂を分かち出て行った仲間たちは残った助成金に対して権利がなくなる。小沢さんの思うままである。違法ではない。法律でそうなっている。国でも自治体でも予算を組みその年度で使い切ってしまう。そういう会計の方法をとっているからだ。国会議員の歳費以外に出る文書交通費は年間1200万円。使途報告は義務付けられていない。明治維新のあと、帝国議会が開かれた。それ以来、国会議員へのそういうあいまいな特権が風習として脈々と続いているのだ。こせこせしないで、おカネのことはおおまかに、国のため大いに働け、ということなのだろう。それが政治の世界とされてきた。小沢さんに限らず国会議員の金銭感覚はそういうもので、一般社会からかけ離れたところにある訳だ。「政治とカネ」の問題がここでどう決着するのか。陸山会事件の今回の裁判は歴史的な大きな意味がある。

11月11日(金)乾坤一擲

プロ野球もそろそろ終り に近づいたころ、グランドではなく、外で二つの大きなニュースがあった。どうも、横浜ベイスターズの身売先が決まったようだというニュースと、ドラフトの東海大の菅野智之去就だ。伯父さんの監督する巨人で野球ができると思っていたところ、日本ハムがくじを引当てた。ベイスターズを来年運営したいといっているのはDeNAという会社である。よく知らない。モバゲイというソーシアルゲームサイトを運営しているのだそうだ。IT企業がプロ野球運営に進出して来るのは時の流れだろう。プロ野球再編問題と絡んだ楽天とライブドアーの近鉄バッファローズ争奪戦は大変な話題だった。福岡のダイエーもソフトバンクが買収した。時の勢いのある企業がプロ野球に興味を持つは常の習いだ。「モパゲイ」と言ってもわれわれの世代にはわからない。長年の横浜ベイスターズファンのマンガ家「やくみつる」さんはゲームサイト「モバゲイ」を評価してない。10代20代の世代がターゲット。それにのめり込むと相当のお金がかかってしまう。非教育的なゲームだという。DeNAが経営している間はファンを休むと宣言した。横浜ベイスターズの前身は「大洋ホエールズ」である。鯨を獲って缶詰にして儲かっていた大洋漁業が山口をフランチャイズにして出来た球団である。1960年、川崎に転じて、知将・三原脩が大毎オリオンズを破り日本一になった。鯨の時代が去った。大洋漁業は「ホエールズ」も手放した。そのとき、色々ないきさつがあって、1992年、TBSが球団の経営権をにぎって「横浜ベイスターズ」に改称した。権藤監督の豪快な采配と、「ハマの大魔神」の活躍で、日本一になった。華やかなスタートだったが、球団側のネックは都市公園内にある「横浜スタジアム」だった。交通は便利だが、いま流行のドーム型は出来ない。売店の収入はすべて球場側にある。他球場にはない様々な規制が球団運営を苦しめた。とうとうTBSは球団経営から身を引くと決めたのだ。経営権を140億円で取得して、65億円で売却する。「モバゲイベイスタース」という球団名にならなかったことにはホットとしたが横浜市民としては何か寂しい。スポーツの多様化で野球のテレビ中継もひところより減ってきている。今年のドラフトは大学野球ピッチャー三羽烏に注目。東海大の菅野は巨人・原監督の甥っ子の身内だ。これではどこの球団も手を出せないだろう、単独指名だと誰もが思っていた。ところが日本ハムが参戦。あれっと思ったら引いた日本ハムの社長が大きく右手を上げて狂喜した。原は何とも言えない複雑な顔をしてうつむいた。ドラフトは過去、数々の悲劇のドラマを生んで、大きな社会問題を引き起こしている。一番強烈なのが江川問題。1978年、「空白の一日」というドラフト制度のスキをついて江川が巨人と契約するという事件だった。選手側にも選ぶ権利があると、「逆指名制」を採用した。行きたい球団があるんだという選手の思いも理解しようということだった。とたん、明大の一場靖弘事件が起きた。巨人、横浜、阪神が事前にカネを渡していたのが発覚したのだ。やはり元にもどして、くじ引きにしようとなった。意中の球団ではなかった菅野。どこにも所属しないで浪人すれば1年後ドラフトにかけられる。社会人のノンプロでやれば、2年かかる。菅野の祖父は原貢氏。東海大野球部顧問。息子・辰徳を著名な野球人として育て上げた自負がある。孫の進路に大きな影響をあたえることは間違いないだろう。

12月 9日(金)乾坤一擲

2011年も間もなく終る。大変な年だった。3月11日、この日を日本人は誰も忘れないだろう。10年前の2001年9月11日。アメリカの同時多発事件。高層ビルに航空機が激突する。偶然、朝のニュースでその瞬間を中継しているのを見た。そこにもう一機の飛行機が激突する。映画のようなシーンだった。「本当か?」と眼を疑った。3月11日もそれと同じような強烈な津波の中継映像だった。午後2時46分。事務所にいた。「あっ、地震だ!」と叫んだ。揺れが尋常ではない。ラジオはすぐ三陸沖の地震と津波発生の緊急速報。テレビをつけると、ま、物凄い。海岸の車を写す。海は巨大な波が揺れ動いている。車が右往左往。橋の上で人がトラックの荷台の上で川を遡ってくる津波を見ている。あれは2004年だった。12月26日、スマトラ沖の大津波。25万人の死者・行方不明者が出た地震だった。まさかあれと同じテレビ映像を日本のこんな間近で見るとは思わない。その日から半年の混乱は、津波の被害の大きさもさることながら、福島の原発が水素爆発を引き起こしたことで、政府機能が麻痺してしまったことだ。その時の首相、菅直人。市民運動出身ゆえの大局観の欠如が起因したものだ。戦後、ひたすら経済発展に日夜邁進してきた日本。果たしてこれでよかったのか。この震災は、日本人へ大きな警鐘を鳴らしたような気がする。月にも行けるし宇宙ステーションで何ヶ月も過ごすことが出来る。原子力でいくらでも電力を作ることができる。物は何でも手に入る。便利になったと思ったトタンその電力供給が止まると、都会の機能は完全にマヒしてしまった。動きが取れない。このあたりで自分を見つめなおしてみたらどうだという、天から与えられた警鐘ではないかと思う。そんな暗い日本に光明をなげかけてくれたのが、女子サッカーの「なでしこジャパン」である。震災から4ヶ月たった7月18日の早朝だった。アメリカを破って女子サッカー世界一になったのだ。これには驚いた。普段あまり女子サッカーはマスコミも取り上げなかった。世界に通用するとは思わない。今年、世界大会に出ても「次回は頑張ります」とすごすごと帰国して来るのだろうと思っていた。それが、あれよあれよという間に世界一になってしまったのである。決勝戦の相手は、アメリカ合衆国の女子である。並ぶと体力の差は歴然。今年はあの真珠湾攻撃(パールハーバー)70周年。アメリカもここで負ける訳には行かない。国中が燃え上がっている。偶然リアルタイムでその決勝戦を見た。2対2の大接戦。PK戦で3対1で倒したのである。勝った瞬間、「おー」と叫んでしまった。神様はドラマを作られると思った。日本の震災の暗いムードを、こういう形で吹き払い、希望と勇気を与えてくれたのだ。それも「大和撫子」である。「なでしこジャパン」。いい時に世界一になったものである。これで日本はぱっと明るくになった。当然、今年の流行語大賞は、「なでしこジャパン」。やっぱり日本の女性は凄いと思い知らされた年だった。

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