社論・乾坤一擲管理
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1月 6日(金)乾坤一擲

昨年末、12月19日のお昼、ニュースを観るためテレビのスイッチを入れる。金正日朝鮮総書記死去の報道だった。驚いた。後継者は三男の金正恩らしい。この金王朝の歴史は新しい。第二次世界大戦の終了時である。朝鮮半島での日本の長い統治が終ると、ソ連は突如として日本に対して宣戦を布告する。朝鮮半島の北部に侵攻し、まもなく日本の北方領土を占領した。寒いシベリアの広い領土を持つソ連は歴史的に暖かい南が好きなのだ。隙あらば朝鮮・日本をわが領土としたい。大戦の後、アメリカと旧ソ連の突っ張りあいで朝鮮は二分された。その頃のソ連の書記長はスターリン。朝鮮半島をわがモノにするという野望に賭けた。朝鮮の抗日活動家だった金成柱を、北部朝鮮で伝説的な英雄「金日成将軍」に仕立て上げたのである。なりすました金日成の稚拙な演説を聞き、おかしいと一部で騒ぎ出したが、スターリンは押し通した。すぐに「偽の金日成将軍」は朝鮮共産党の書記長に祭り上げられた。その勢いで、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻した。朝鮮戦争勃発である。北は一時は全土を制圧するかに見えたが、アメリカ軍が仁川上陸を開始すると、この「首領様」は部下に指揮をまかせ、どこかに逃走してしまった。間もなく中国軍が派兵したことによって戦局は膠着する。1953年6月、休戦が決まると、すました顔では平壌に帰って来た。北朝鮮の金王朝が生まれたのはそんな訳で、東西の冷戦、大国のエゴイズムの狭い谷間の中で、いいかげんなものだったのだ。それが世襲となって二代目・金正日の悪行の数々。テロ支援国家として、イラン、イラクとともに「悪の枢軸」とアメリカのブッシュに名指しされても、平気なもの。「先軍政治」「瀬戸際外交」とやりたい放題。日本人数十人の拉致事件は、小泉元総理との会談で認めたものの、「一部の盲動主義者がやった。もう処分した」で、ある。1987年の大韓航空を爆破計画の張本人。あの金賢姫の証言で明らかになっている。その三代目が金正恩、28歳。体形があの国の人にしては異様。国民は餓えているというのに、まるまる太っている。中・高とスイスに留学。落第して帰国。「首領」として就任すると、国民に「魚」を配給するよう命じた。ブータンの若い国王夫妻が日本にやってきたのはつい最近。東日本震災のお見舞いと新婚旅行をかねたものだった。ブータンという国は人口70万人。国土はちょうど九州と同じ大きさである。中国に隣設している。ナムゲル・ワンクチュ国王は5代目。32歳。世界最年少の国王である。この国王夫妻は好感をもって迎えられた。ブータンは経済的豊かさは追い求めない。国民がお互いどれだけ幸福感を共有できるかということが国是だという。国民総生産ではなく国民総幸福度というのを国をあげて追求する。そうだこれは北朝鮮建国の理想だったのだ。どこでどう間違ったのか、国民のほとんどは餓えている。。金正恩三代目総書記は国民に「魚」を配給する前に、ブータンのナムゲル・ワンクチュ国王にお会いして、ブータンの国情を視察するのが先ではないか。三代の世襲はない。金王朝はゆっくりと解体されていく方向が望ましいと、誰もが思っている。

2月10日(金)乾坤一擲

野田首相は、1月25日、選挙権年齢を現行の「20歳以上」を「18歳以上」への引き下げの方向に向け、公選法などの関連法案を今国会に提出する方針を固めていると語った。何でこの時期に?と、人気下降気味の野田政権が若者をとり込もうとしているのではないかとうがった見方をしてしまう。日本人の精神年齢からすると30歳ぐらいから大人扱いでちょうどいいという人もいるのだから、18歳に下げることなんかない、と誰もが唐突に思うだろう。ところが、調べてみると、世界には18才から選挙権を与えている国は170もあるのだ。G8でも20歳は日本だけ。20歳にしている国は台湾、クエート。21歳がシンガポール、クエート。え、そんなに若いの?という国はイランで15歳。ブラジル、キューバは16歳である。 成人、選挙権というのは世界どこでも20歳だと思っていたので、各国こうも違うのかと驚いてしまった。日本は第2次世界大戦後の1945年、衆議院議員法の改正で、25歳から20歳に引き下げられ、今日に至っている。成人式も満20。1948年に「1月15日は、おとなになったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年をお祝い励ます日」と定められた。2000年の「ハッピーマンデー法」によって1月の第2月曜日に改正されている。自立ということが、親から離れてて独立するというとなら、日本の20歳の成人の50%以上は大学生なのだから、親のスネをかじっている身分である。今年は静かだったが、紋付羽織袴で酔っぱらって会場で大暴れしていた成人式を思うと、日本人の20歳は甘えん坊のまだ子どもではないのか。アメリカは選挙権が18歳からになったのは、ベトナム戦争が契機になった。18歳から21歳未満の青年たちは、兵役の義務を負い、納税を義務付けられ、刑事責任を追及される。立派な大人なのだ。それなのに政策を決定する機関としての選挙になんの発言権もない。若者たちの主張に世論が大きく動いた。1970年に選挙法が改正されたのである。そういうアメリカと日本の社会情勢は大きな違いがある。親の保護のもとほとんどの若者が学生生活をエンジョイし22歳で社会に出る。自立はそのあたりからになるのだろう。日本には古来成人になるための風習・儀式があった。元服といって、江戸時代は15歳とされたが、それまではだいたい15才から20オまでの間に行われていた。男子は髪を結い、冠または烏帽子をつけ服装を改めた。女子は髪を結い上げ、歯を黒く染め上げるお歯黒をして成人の儀式としたのだ。これは武士とか貴人の間に行われていたものだが、各地の村々では、大人になる儀式が年齢をきちんと設けなくて行われてていた。おもしろいやりかたど快哉したのは、「一日山に入って60キロ柴を刈って、それを背負って3里(12キロ)売り歩けたら、一人前の男だ」と認定され、大人の仲間には入ることができたという方法だった。なるほどこれが一番わかりやすく、厳正な成人の基準だ。野田さんも世界のほとんど選挙権が18歳からだといって右へ習へではなく、日本のこういった故事に習って、選挙権年齢を日本独自の方法を考えて法案を作ったら、支持率は急激に上がりますぞ!

3月 9日(金)乾坤一擲

3月4日、ロンドンオリンピック・男子マラソン代表選考最終レースとなった「びわ湖毎日マラソン」。山本亮選手が2時間8分44秒で第4位、日本人としては第1位となり、選考枠3人に入ったといわれている。12日に発表されるそうだが、東京マラソンで2位の藤原新選手が2時間7分48秒を出してほぼ一人目の枠を確保している。日本のマラソンはひところはお家芸だった。ボストンで山田敬蔵が世界に躍り出た時が1953年4月。「心臓破りの丘」という題で映画にもなった。2時間18分51秒。当時は驚異的な記録である。1964年、寺沢、君原、円谷と3人出場した東京オリンピック。期待の薄かった円谷幸吉が銅を取る。ゴールの国立競技場に2位で入ってきたとき、日本中が感動した。タイムは2時間16分22秒。「幸吉は、もうすっかり疲れきっていて、走れません」と遺書を残して自殺。衝撃的な事件だった。ところが最近はマラソンは女子に注目。男子の低迷が続く。ローマ・東京と2回オリンピック優勝のアベベの出現がアフリカのマラソン熱をあおったのだろうか、国際的なマラソン大会の上位は彼らたちである。ただレースの世界では低迷が続いても、フルマラソンに挑戦する市民ランナーは増え続けている。東京マラソンがいい例だ。2007年、石原東京都知事のアイディアと強固な実行力で開催にこぎつけた。それまで東京都内を走る東京国際マラソン、東京国際女子マラソンなどがあったが、それをひっくるめて、さらに市民ランナーも参加できるという壮大な構想の大会である。こういうことに何やかやと反対する人種がはびこる。マラソン大会のスタートの日に北朝鮮からミサイルが飛んでくる。この大会は石原と北朝鮮の陰謀なんだ、と。もう滅茶苦茶。さらに問題はもう一つ、この都内を走るマラソン大会計画に同時期に開催している「青梅マラソン」の存在があった。この大会は第一回が1967年。東京オリンピックで一躍国民的人気者になった円谷幸吉がスターターをつとめた。この大会と時期が同じ。これで「青梅マラソン」の参加者は減少するといわれた。ところがこれは杞憂に終った。こちらも相変わらずの人気なのだ。とにかく東京マラソンは30万人が応募する。その中の36000人だけが抽選で走れる。抽選にもれた市民ランナーたちはおそらく「青梅マラソン」に申し込むだろう。相乗効果を生んでいるのだ。「石原都知事閣下」の強烈な個性とリーダーシップが生んだものと評価していい。ところで、今回のその東京マラソンで無念の敗退。翌日「けじめをつける」として「ゴリン(五輪)刈り」で現われた、公務員ランナー、川内選手のことである。彼をマラソン代表枠の中に押し込めるという案はどうだろう東日本大地震と津波から原発事故。その復旧の真っ只中である。その日本の代表として、川内選手を世界中が注目する中走らせるのである。、ゴール前からゴール後のあの「川内の走り」を今の日本人の困難に挑む象徴としてオリンピックに送り出すのだ。瓢箪から駒。それに応えて、彼も意外な答えを出すかもしれない。ただ日本陸連にはそういうユーモアが通じそうではないが…。

4月13日(金)乾坤一擲

何かまた北朝鮮が騒がしい。4月15日の金日成生誕100年の記念行事として衛星と称する弾道ミサイルを東シナ海方面に向けて打ち上げると発表すると、田中防衛大臣は右往左往。北朝鮮は、4月8日、その打ち上げ施設を外国メディアに公開した。しろうと目にもあれが打ち上げの発射場なのかと思わせるものだった。衛星も「おもちゃのようなもの」だ。それでも日本は何かあったら打ち落とすとP3CやPAC3を配備し警戒にあたる。第2次世界大戦後、日本の北側と西南側にはその混乱に乗じて二つの国家が生まれている。北朝鮮と台湾である。両国とも日本の元領土だった。北朝鮮は旧ソ連の後押しで生まれ、台湾は毛沢東に追われた反共の蒋介石が作った。1949年である。その年を境にこの二つの国の日本に対する思いに極端な違いが生まれてくる。北朝鮮の金日成一家は三代にわたって日本敵視政策である。拉致問題も以前として未解決のまま。どれだけの日本人が犠牲になっているか闇は深い。今度の実験もアメリカへ向けてではなく明らかに日本を射程にいれたものである。一方の台湾。国連の常任理事国の五大国の中に入っていた。中華民国と称していた。1943年、戦争終結を話し合う「カイロ会談」は、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中華民国の蒋介石と、この三者で行われている。 国連の常任理事国・中華民国が毛沢東の中華人民共和国に代わったのが1971年。翌1972年、田中角栄内閣により日中国交正常化が実現し、台湾との日華平和条約が終了した。事実上台湾という国家との正式な国交はなくなってしまった。そんな中で最近起きたのが、東日本震災追悼式での日本政府の台湾の扱いである。各国代表に用意された1階の来賓席でなく、通されたのは民間機関の代表席、2階である。今回の台湾の義援金は250億円。寄せられた33カ国の178億円を遥かに上回る。藤村官房長官は「この扱いは外務省と内閣府で調整済み」だ、問題はない、といっている。明らかに中国大陸を意識したものだ。中華民国の初代総統の蒋介石は、戦後、日本への戦争賠償の請求を放棄している。論語の言葉を使って「怨みに報いるに徳を以てす」と言って、こう演説している。「われわれ中国人は旧悪を思わず、人に善をなすというのが、伝統的な至高至貴の特徴であり、日本軍閥は敵とするが、日本人民にたいしては何も怨みはない、これを許す」。今回の義援金は大半が個人の寄金だという。蒋介石は国家を私物化してない。台湾の人もそれを許さない。二代目総統は長男・経国だったが、三代目から国民の総意を尊重し、選挙で選ぶという道を取った。その三代目の総統が李登輝である。今でも隠然たるこの国の精神的支柱である。李登輝は1945年まで純粋な日本人だったといっている。「武士道」の著者・新渡戸稲造を師として大学で農業経済を学ぶ。中華民国の真上を飛んで北京と手を組み、台湾を外すという日本政府に対しても平然。さらにその国から東日本震災追悼式での非礼にも泰然。こういう国がありこういう人がいるということを日本人は決して忘れてはならない。

5月18日(金)乾坤一擲

 ゴールデンウイークの4日、5日、北アルプスでは13人が遭難し、そのうち8人が死亡するという事故があった。中高年の登山パーティーである。長野県の白馬岳では北九州の6人が、家族から連絡がつかないと大町署に通報があった。翌5日朝、別の登山者が6人が倒れているのを発見。ヘリで運ばれたがすでに全員死亡が確認された。下着とシャツの上にジャンパーや雨ガッパの軽装だったという。死因は低体温症。いわゆる凍死である。その中にはお医者さんがいたというのには驚いた。5月は初夏とはいえ天候が急変すると山は真冬並みの気温になる。真冬と同じ氷点下。そんなところに防寒対策がなされてない人が無事でいられる訳はない。事故にあった方々が60を越えた高齢者パーティーというのには、時代が変わったのだなとつくづく感じる。山の遭難というとひところは無謀な若者たちの定番だった。今はどうも分別のあるご年配の方々が多いのだ。 あれは3年前だった。平成21年の7月。真夏の北海道大雪山・トムラウシ山での60代の登山ツアーの遭難である。天候の急変で動けなくなり、やはり低体温症で、9人も亡くなっている。今回の白馬岳の遭難、この時の教訓は何も生かされていない。昨今、中高年と女性の山ブームのようだ。山登りが盛んになるのは結構なこと。。山にのめりこむ女性を「山ガール」という。あちこちでメディアが取り上げる。颯爽と決めこんだ山のスタイル。「山男」とは言っていたが「山女」とはどうしてか言わなかった。「山ガール」は語感がいい。これは野外コンサートが発端だという。外でコンサートを聴くんだから雨具を用意しなければならない。そのファッションを女性たちは山に持ち込んだ。ブームの始まりは平成21年。あの大雪山の事故と同じころである。日本に登山ブームが最初にやってきたのは昭和31年(1956年)5月、日本山岳会のマナスル登頂成功からである。日本中が沸いた。その年の夏は空前の登山ブーム到来である。東京近郊の山には若者たちであふれかえっていた。街ではダークダックスの「娘さんよく聞けよ、山男にや惚れるなよ」が流行った。この年は日本の大転換期だった。石原慎太郎の「太陽の季節」が芥川賞を受賞。戦後の暗い世相を若者たちが打ち破って行ったのだ。海でも彼らは存在感を示した。湘南の海はサングラスにアロハシャツであふれかえる。「太陽族」スタイルはたちまち日本中に広まっていく。経済白書は「もはや戦後ではない」と胸を張った。そのころの若者たちが今、60、70代。青春を取り戻そうと謳歌しているのだ。日本の第2次登山ブームは必然的にやってきた。交通機関の発達で山へのアプローチが便利になった。装備も軽くなり高度になった。時間と金さえあれば日本中どこへでも行ける。簡単に行けるようになったことが、山の恐ろしさを軽減させているのかもしれない。今回のゴールデンウイークの中高年登山パーティー事故は自然から「人間の驕り」への警鐘なのだ。岩登りや冬山には行かないとしても、どんな時でも十分な備えと慎重な行動が自然の中では求められる。山を甘く見るな!中高年登山への警告である。

6月 8日(金)乾坤一擲

小沢一郎元代表に消費税増税法案に協力してもらおうと面会を求めた野田総理。記者団に、「小沢一郎氏への説得に全力をあげる。お会いする以上乾坤一擲で、一期一会のつもりです」と言明した。「乾坤一擲」子としてはここでこの言葉が出て来るとは面映い。それは一回目の30日の前だった。どうも何か不発だったような雰囲気。その2回目の、6月3日の野田・小沢「乾坤一擲」の日だった。ところが、そのことより強烈な、とんでもないニュースが駆け巡った。指名手配中のオウム真理教の菊地直子が逮捕されたのだ。17年間の逃亡の果てだという。一緒に逃げていた高橋克也も15日朝漫画喫茶で捕まった。思えば「乾坤一擲」の連載か始まったのはこの年だった。あおばタイムズの創刊号は1995年6月10日。その一面のコラムを「乾坤一擲」と銘打った。その第一号はこんな内容だった。「オウム真理教の麻原彰晃教祖と、自民党元副総裁金丸信。何となく似ている。垂れ下がった眉毛、大きい顔に細い目。拝金主義者の顔というものだろうか。普段、一番身近に置いていたというのが、両方とも、金の延べ板だった。今、ひとびとを混乱させているものに政治と宗教、それにもう一つ、マスコミがある。政治を腐敗させ、宗教の影の部分を野放しにした責任の一端は大新聞にある。社会の木鐸としての使命感は喪失し、政治部記者は政党や政治家のことを知っていても書かない。政治スキャンダルが発覚するのは、一匹狼の熱血漢ジャーナリストの勇気ある行動によることが多い。大新聞には宗教の問題はタブーだ。発行部数に影響するからである。さわらぬ神にたたりなし、である。大企業の不正を追及すると、広告を断られる。これは困る。だから書かない。オウム真理教は、デタラメだと、執拗に追っ掛けていたのは、大新聞の記者たちではなかった。江川紹子さん、元神奈川新聞記者。辞めて、新興宗教の問題に取り組んでいた。被害にあったオウム真理教の元信者を、坂本弁護士に紹介したのは、江川さんだった。その坂本弁護士一家三人、突然、何者かにつれさられた。この事件はオウム真理教が大きく関与していると、江川さんは確信したが、誰も動かなかった。あの事件の時、どうして当局は徹底的に、調べなかったのか。新聞は何故キャンペーンを張って追及しなかったのか。そうすれば、サリンは存在しなかったのだ。一匹狼の江川さんは、生命の危険を感じながら、追及の手を決して緩めなかった。見事なジャーナリスト魂である。(中略)自己保身に汲々とし、先の見えない政治家達には、江川紹子さんの爪の垢でも煎じて飲ませたいものである。(H7.6.10号)」あの時は1月16日に阪神淡路大震災が起きて、2ヶ月後の、3月20日、「地下鉄サリン事件」が勃発。当初、サリンが何なのかわからない。猛毒らしいが誰かが地下鉄の中で撒いたのだという。死者13人、負傷者6900人。戦後最大の無差別テロ事件である。オウム真理教が関与しているとされ、日本中が震え上がった。政治は、細川、羽田の非自民政権のあと、自民党がバックについて社会党の村山富市内閣時代だった。その頃から背後にはずっーと小沢一郎がいる。この17年、オウムの問題は核心に近づいて来ているが、政治は何一つ変わっていないことに気がつき慄然とするのである。

7月13日(金)乾坤一擲

とうとう、小沢一郎、民主党離である。消費税導入反対。新党を立上げるという。あの3年前の2009年8月30日、政権交代が実現した時、国民は狂喜し歓迎した。期待は大きかった。国民生活第一。すごいマニフェストの内容だった。子供手当て、高校無償化、高速道路もタダになる。ガソリン代も安くなる。3年後に消費税率あげるとはどこにも書いてない。長期の自民党政権にうんざりだった。政官癒着の国民を向いてない政治よサヨウナラ。直後の鳩山さんの支持率は75%。すぐに「事業仕分け」のパフォーマンスが始まった。テレビ中継で、政治主導のイメージ作りの演出である。各省庁の無駄を省いて20兆円の財源を確保するという。国民も注目した。「2番目ではいけないんですか?」蓮舫氏はこれで民主党の看板スターになった。ところがこの仕分け、1割の2兆円弱の削減もできなかったのだ。売り出した蓮舫氏、調子に乗って「スーパー堤防」を廃止と判定した。その直後、あの3・11の大地震である。節電要請で都庁を訪れた蓮舫氏、石原知事が「あれは必要ですよ」と異論を唱えると、15分の会見予定を5分で切り上げ、そそくさと帰ってしまった。そのあと「事業仕分け」は尻切れトンボに。鳩山首相の「普天間基地」の対応のまずさ、次の菅直人の大震災での言動もあるけれども、「事業仕分け」の失敗はイメージが悪かった。巨大な官僚の壁をどうすることも出来ない民主党というのがはっきりした。それに野田内閣の突然の増税法案提出である。自民党と公明党と手を組んでだから、政権交代を実現した民主党は何処へ行った、と国民はあきれかえっててしまった。野党時代は政府を吊るし上げていればよかったのだが、与党になって財務省と折衝の機会が増える。そのうち旨くやり手官僚たちにに丸め込まれてしまったのだ。誰かが、今回政権交代した民主党は、甲子園に初めて出場した1年生のエース、あがってしまって自滅し、何もしないまま大敗したようなものと評したが、まさにそのとおり。ただ高校野球の1年生エースは練習で鍛えて再度挑戦の道があるが議員の集団である政党は、与党として返り咲く道は厳しい。秋に選挙か?という声も上がっている。小選挙区制では一人が選ばれる。出て行った人たちのところに民主党公認候補が立てられるのか?地方からは、「石原新党」、橋本大阪市長の「大阪維新の会」、名古屋からは河村市長の「減税日本」、が国政進出を準備中だ。小沢一郎氏の今回の民主党離党は次の選挙を狙んでのことだということははっきりしている。ところが増税法案に反対し離党した小沢一郎氏の行動への支持率は意外と低いのだ。新党騒ぎを歓迎しているのはマスメディアとその周辺に巣食う政治評論家たちだけだということがよくわかる。今日の日本の政治に国民はもうとっくに醒めてしまっているのだ。

8月17日(金)乾坤一擲

 日本の真夏の深夜を興奮させたロンドンオリンピックも18日問の幕を閉じた。ロンドンと日本の時差は8時問。日本の方が進んでいる。主な競技の決勝などは日本では深夜になってしまう。それでもテレビ放送技術の進歩は鮮明な映像を茶の間送り込み、すぐに編集すると各局でダイジェスト版を見ることができる。小紙のオリンピックの記憶は1952年の第15回フィンランドのヘルシンキである。やはり同じような時差があって、あの頃はラジオの短波放送で実況中継。波があって、ジージ・ガーガー、間歇的に言葉を拾わなければならないので、理解するだけで大変だった。オリンピツの映像は映画製作。コンパクトにまとめられだいぶたってから映画館で上映された。このヘルシンキは戦後初参加。実に16年ぶりだった。日本中が大会の結果に固唾をのんだ。レスリングの石井庄八が金メダルを獲ると学校ではすぐ話題になった。「フジヤマのトビウオ」、古橋広之進は四百・自由形決勝で8位。金が期待されていた。この負けにはショックだった。次の1956年はオーストラリア・メルボルン。このときの日本水泳陣の活躍はめざましかった。二百・平泳ぎで古川勝が金。無名の高校生、石川県輪島高校の山中毅がはなばなしくテビューした。地元のマレーローズとの四百、千五百自由形の対決は日本中を興奮させた。惜しくも両方銀。これも波打つ短波放送だったような。アメリカとソ連が対峙する冷戦時代。金メダルの数を競いあった。そのメルボルンの金の数はソ連37、アメリカ32である。1980年、モスクワで開催されることになったら大騒ぎ。その前年のソ連がアフガンに侵攻すると、アメリカ・カーター大統領がオリンピックボイコットを発表。西側諸国ににも呼びかけて日本も不参加。瀬古利彦と山下泰裕の悲痛な顔が蘇る。オルンピックは神聖なもので政治的な介入は許されない。東の大国・ソ連崩壊の前兆だったのだろう。まもなく、1991年に瓦解してまう。翌年のバルセロナでは旧ソ連・EUNという国名で出場して、金ダル数はアメリカを上回る。次のアトランタからロシアと国名が変わって、金の数はアメリカに及ばなくなった。そのあと台頭してきたのが経済発展めざましい中国である。ロンドンの二強はアメリカと中国。いずれ中国がアメリカを抜き去って行くような予感がする。ただ、オリンピックが国威発揚の場になってもいいのだが、政治的なものに利用することはあってはならない。今回のロンドン大会は日本の活躍は期待以上だった。あまり知らない選手たちの活躍がめざましかった。中でも女子である。「なでしこジャパン」が引っ張ったようだ。アメリカとの決勝戦には惜しくも敗れたが日本人に残した感動は、もうこれは金メダル以上の価値がある。さらに、卓球の愛ちゃんの団体銀、柔道唯一の金メダル、松本薫。水泳女子400メドレー。小原日登美、伊調馨、吉田沙保里のレスリング金。藤・垣コンビのバトミントン銀。ロンドンは撫子の花が咲き乱れた大会だった。



9月14日(金)乾坤一擲

自民党の森元首相は、「あれは全く支離滅裂だ」と、三党合意を否定する「問責決議案」に賛成してしまうと、谷垣総裁をこう評した。8月9日、谷垣・野田のサシの極秘会談が行われた。「近かいうちに解散するから」、消費税増税法案を柱とする「社会保障と税の一体改革」関連法案を成立させてくれ、と野田さんから持ちかけられ谷垣さんはあっさりと合意してしまった。エッと思った。この人の政治家としての最初の印象は「加藤の乱」である。加藤紘一さんが森内閣不信任案に賛成の票を投じようとして議場に入ろうとするのを、「自重してください。あなたにはまだ先がある」と涙ながらに止めていたシーンだった。純粋、真面目。表も裏もない。だから、政治家としてのキャリアは自分よりぐーんと下の野田総理の術中にまんまと引っかかったんだろうな、と思った。会談を跳ねつけて出て来ていたら、民主党は分裂。支持率は民主党より上を行っていた自民党は解散に追い込み政権奪取も夢ではなかった。このあたりから長老たちの谷垣おろしが始まった。さらに三党合意で法案を通してしまったのに、他の野党七党提出の「野田首相問責決議案」に賛成にまわって参院で通過させたのだ。ここで森元首相の「支離滅裂」発言となったなのだ。対する野田さん、政治経験はそう豊富なほうではないが、年配でキャリアのある谷垣総裁を自滅の方向に持っていってしまった。なかなかの二枚腰である。9月10日、とうとう谷垣さん総裁選のレースを降りてしまった。「解散と公定歩合は嘘をついていい」という政界の不文律からすると、民主党に風が吹き始めたようだ。すぐに解散は遠のいた。自民党の長老たちが担ぎあげたのが、五十代の石原伸晃幹事長である。「谷垣さんを支えるために政治をやってきたのではない」、と執行部にいながら妙な発言をした。9月2日、東京都が尖閣の調査を行った日である。ところが7日、尖閣諸島の地権者が20億円で国に売却すると石原慎太郎東京都知事に会って謝罪している。このお方は民主党現政権に対してはあまり評価をされず、自ら新党立ち上げて国政への意欲をちらつかせておられた。このところ「大阪維新の会」の陰に沈んでしまってあまり話題にならなくなった。ところが石原幹事長代表選出馬である。裏にはどうも石原慎太郎都知事の野望と思惑が見え隠れするのを感じるのだ。自民党も石原新党が立ち上がると困ったことになる。長老たちはそこに息子の石原幹事長を担ぎ父・慎太郎氏を抱きこんでしまおうという深謀遠慮が働いた。80歳。自ら国政に返り咲いて首相を狙うにはやっぱり高齢である。息子ならわが分身。果たせなかった国政の長への夢。石原慎太郎さん、怖そうだけれども結構親馬鹿。尖閣への怨みもあるから、自民党の選挙カーに乗って全国遊説。オリンピック東京誘致よりも力が入るだろう。谷垣不出馬で選挙は遠のいた。したたかな野田総理、すましてこのまま任期満了まで居座ってしまうのではないか。そうすると来年夏。「太陽の季節」の選挙だとすると、石原慎太郎の独壇場だ。今年は日活映画100周年。事実は小説よりおもしろそうである。

9月28日(金)乾坤一擲

この新聞が発行されるころ自民党の総裁は決まっているが、谷垣さんは長老たちに不評で降ろされてしまったのだ。森元首相は、「あれは全く支離滅裂だ」と、三党合意を否定する「問責決議案」に賛成してしまうと、谷垣総裁をこう評している。8月9日、谷垣・野田のサシの極秘会談が行われた。「近かいうちに解散するから」、消費税増税法案を柱とする「社会保障と税の一体改革」関連法案を成立させてくれ、と野田さんから持ちかけられ谷垣さんはあっさりと合意してしまった。エッと思った。この人の政治家としての最初の印象は「加藤の乱」である。加藤紘一さんが森内閣不信任案に賛成の票を投じようとして議場に入ろうとするのを、「自重してください。あなたにはまだ先がある」と涙ながらに止めていたシーンだった。純粋、真面目。表も裏もない。だから、政治家としてのキャリアは自分よりぐーんと下の野田総理の術中にまんまと引っかかったんだろうな、と思った。会談を跳ねつけて出て来ていたら、民主党は分裂。支持率は民主党より上を行っていた自民党は解散に追い込み政権奪取も夢ではなかった。このあたりから長老たちの谷垣おろしが始まった。さらに三党合意で法案を通してしまったのに、他の野党七党提出の「野田首相問責決議案」に賛成にまわって参院で通過させたのだ。。対する野田さん、政治経験はそう豊富なほうではないが、年配でキャリアのある谷垣総裁を自滅の方向に持っていってしまった。なかなかの二枚腰である。9月10日、とうとう谷垣さん総裁選のレースを降りてしまった。「解散と公定歩合は嘘をついていい」という政界の不文律からすると、民主党に風が吹き始めたようだ。すぐに解散は遠のいた。自民党の長老たちが担ぎあげたのが、五十代の石原伸晃幹事長である。9月2日、東京都が尖閣の調査を行った日である。ところが7日、尖閣諸島の地権者が20億円で国に売却すると石原慎太郎東京都知事に会って謝罪している。このお方は民主党現政権に対してはあまり評価をされず、自ら新党立ち上げて国政への意欲をちらつかせておられた。このところ「大阪維新の会」の陰に沈んでしまってあまり話題にならなくなった。ところが石原幹事長代表選出馬である。裏にはどうも石原慎太郎都知事の野望と思惑が見え隠れするのを感じるのだ。自民党も石原新党が立ち上がると困ったことになる。長老たちはそこに息子の石原幹事長を担ぎ父・慎太郎氏を抱きこんでしまおうという深謀遠慮が働いた。80歳。自ら国政に返り咲いて首相を狙うにはやっぱり高齢である。息子ならわが分身。果たせなかった国政の長への夢。石原慎太郎さん、怖そうだけれども結構親馬鹿。尖閣への怨みもあるから、自民党の選挙カーに乗って全国遊説。オリンピック東京誘致よりも力が入るだろう。谷垣不出馬で選挙は遠のいた。したたかな野田総理、すましてこのまま任期満了まで居座ってしまうのではないか。そうすると来年夏。「太陽の季節」の選挙だとすると、石原慎太郎の独壇場だ。今年は日活映画100周年。伸晃総裁だと事実は小説よりおもしろくなるのだが。

10月12日(金)乾坤一擲

9月11日に日本政府が尖閣諸島を国有化すると決定したその週末の9月15日、中国国内50都市以上に反日デモが発生した。「破壊し尽せ」と、パナソニックの工場に放火。岡田副総理の身内が経営するスーパー「ジャスコ」の窓ガラスがめちゃめちゃに壊された。ジャスコの被害は24億円にも達するという。次の国家主席といわれる習近平が9月2日から消息が途絶えた。どうもその間何かがあったということが予想できる。尖閣諸島を日本が国有化に中国はどう出るか、中国政府は習近平に対応を一任している。暴動は組織化されていたのだ。法治国家としての普通の国ではない。今年は日中国交回復40周年の年にあたる。両国でその祝賀パーティーも準備されていた。それなのに日本の企業にあたりちらし暴徒と化し破壊行為。日中国交を果し、その後失脚中の田中角栄元首を訪日のたびに訪問したケ小平は「黒い猫でも、白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」と評価し、さらに、中国には「井戸の水を飲む時は掘った人のことを感謝しながら飲むもの」という言葉があると功績を讃えたのだった。ソ連が崩壊するとすぐに共産主義を捨てた。アメリカの資本を利用し、日本の企業を誘致し、今日の繁栄を築いたのだ。この40年の間に中国は世界第2位の経済大国になった。その富が権力側に集結しているのだ。毛沢東の肖像を掲げたデモ隊は1万人、日本大使館を取り巻いた。中国は、都合よく共産主義を愛国・反日主義に大転換していることがわかる。古来、中国人には国家観がない。人が勝手に集まって、バラバラに住んでいるだけ。そのことは明治の元勲・勝海舟が喝破している。6世紀のことだった。インドの達磨大師が布教のため中国へ渡った。当時の中国は梁といって国王は武帝である。仏教を厚く信仰している。達磨大師に会うと、「私は寺を建て、経を写し、僧を手厚く保護している。これでどれだけ功徳があるか」と、自分の権力がどれだけのものか、莫大な富を自慢して言った。達磨大師は一言「無功徳」。武帝に失望した大師はすぐにその国をを去った。気がついた武帝は後を追わせたが達磨大師は戻って来なかった。この禅の逸話でインドと中国との国の違いがはっきりする。中国はずっとそんな国なのだ。1966年、文化大革命が起きた。その風は日本にも吹き荒れた。毛沢東が復権を目指した中国共産党の内部闘争なのだ。日本の大学は紛争だらけ。「毛語録」はベストセラー。日本は厄病神にとりつかれたように荒れに荒れた。10年間、終ってみると、権力にしがみついて前後を見失った一人の老革命家の「世迷言」だとわかった。あの革命のなかで中国人の死者600万人というのは今では否定する人はいない。何人も証言する人も出ている。その目をそらすために日本帝国軍人による南京30万人虐殺事件がでっち上げられたのだ。今回の尖閣問題で日本でも中国に抗議するデモが起きているが、参加者の中に若い世代の人が多かったのには、正直ほっとしたものである。

11月 9日(金)乾坤一擲
10月10日、19人目の日本人ノーベル賞が誕生した。このところ暗いニュースばかりだった。中国では尖閣をめぐって反日暴動。「破壊し尽くせ」と、松下系企業の工場は放火された。ジャスコも窓ガラスがめちゃめちゃに。現地の日本人は突然襲われ殴られる。これはもう法治国家とはいえない。そんな中に颯爽と山中伸弥教授の登場である。「ヤマナカはホームランを打った」。このニュースは世界を駆け巡った。自然科学分野でまだ一人もノーベル賞を出してない中国と韓国。この一件で日本への「いちゃもん」の勢いが衰えてしまったように見えるのだ。これはもう銃撃もなにもせず相手を黙らしてしまうのだから、黄門さまの「印籠」と同じである。その黄門さまの、山中伸弥教授。一般的には無名だった。50歳の長身。これまでのノーベル賞受賞の方々のイメージとはまるで違う。さわやかなのだ。ノーベル賞というのはダイナマイトの発明で知られるアルフレッド・ノーベルの遺言により、1901年から始まっている世界的な賞である。これまで日本人も北里柴三郎、野口英世といった歴史に名のある人たちが候補としてあがっていたが、受賞にはいたらなかった。何人もノミネートされているが、初の受賞は1949年(昭和24年)の湯川秀樹である。このときの受賞も日本人には衝撃的な出来事だった。まだ日本中敗戦のショックは渦巻いていた。「ゆかわひでき」「ちゅうせいしりろん」という言葉に、小学校にもあがっていない小紙にも、日本の未来への希望の光が差し込んでくるものを感じたものだった。2番目の受賞者は、朝永振一郎。16年もあとになる。日本の自然科学のノーベル賞者は15人。アメリカ、イギリス、ドイツ、フランス、スエーデンに次ぐ第6位である。これはもう凄いことだ。これだけのことをやって世界の科学の進歩に貢献しているのだ。戦後蔓延している自虐的な歴史観を持つことはない。日本人はすばらしい。今回の山中伸弥教授の快挙には日本人の持っている粘りと謙虚さ、実直さが大いに手助けをしている。本人のキャラクターもいい。高校時代の柔道部時代骨折10回。得意技、「骨折」、とからかわれた。医学の道へ進むが、手術が苦手。20分で済むところを2時間もかける。先輩に「お前はヤマナカではない、ジャマナカだ」。研究室の笑いもの。それが一転、研究者の道に転じ、この快挙である。アメリカで指導を受けたイネラリティ教授に、「研究に必要なものは二つ、VとWです。これを大切にしなさい。」といわれる。VはvisionでWはworkのことである。先におおきな目標を描き、こつこつと重ねていく。研究の世界だけでなくこれは全てのことに当てはまる人生の金言である。

12月14日(金)乾坤一擲

歌舞伎の中村勘三郎さんが亡くなった。世間は12月2日に、笹子トンネルで起きた天井落盤事故で騒然としていた最中の5日だった。歌舞伎という古いしきたりの多い世界で、のびのびとした明るい性格は何人にも好感をもたれた。さらに色んなアイディアで若い世代を歌舞伎に引き込んだ功績は大きい。癌の手術をするというのは耳にしたが、昨今、医学の発達によって癌はそんな恐ろしい病気ではなくなった。例の人懐っこい笑顔で手術室から飛び出して来て、4月の歌舞伎座のこけら落しを沸かしてくれると信じていた。佳人薄命。57歳はあまりにも若すぎる。小紙の故郷は熊本。小さな町で母の実家が芝居小屋を経営していた。大正座といった。大正時代に作られたのだろう。祖母たちはよく歌舞伎を話題にしていた。あの役者の演技どうだの、セリフ回しが下手だ、と具体的な深い演劇論だった。交通の不便な時代、よく大阪や京都、東京に歌舞伎を見に行けたもんだと、感心していた。歌舞伎への造詣が尋常でないのだが、それを観るために列車に乗ってわざわざ行っていたということに、ある時、疑問が出てきた。そのことを、最近、叔父に聞いたことがあった。その我が家の目の前にあった芝居小屋で、歌舞伎の興行が行われていたのだというのだ。旅回りだ。歌舞伎は日本中を巡回していたのだ。それを祖母たちは観た。九州は温暖で食べ物も豊富。役者たちは九州巡業を楽しみにしていたようだ。何日も演っていく訳で、その間、祖母たちは通ってセリフまで覚えてしまった。娯楽の少ない時代、歌舞伎の存在は大きかった。昭和31年、木造の芝居小屋「大正座」は下足番の住込み夫婦の火の不始末で消失した。構造は東京の歌舞伎座とまるで同じだった。左に花道があり、客席は升席。重箱においしい料理を詰め込んで観覧。舞台には手動の「せり上がり」もあった。小さな町にしては豪華な芝居小屋だった。中村勘三郎さんの死を悼みながら、そんな思い出にひたっていた。歌舞伎は順風万般で今日まで来た訳ではない。東京の歌舞伎座は大正10年(1921年)、漏電で全焼。建替えも完成した直後、大正12年(1923年)、関東大震災に遭遇。翌々年、ようやく新装の歌舞伎座がスタートした。関東大震災後の東京の名物になって行く。新宿の歌舞伎町は昭和20年の東京大空襲で焼け野原になった後、歌舞伎などの娯楽施設が計画されて、その名前になったのだが、資金面で頓挫。名前だけが残ったのである。戦後間もなく映画全盛の時代が訪れると、多くの歌舞伎役者が映画界へ身を投じた。歌舞伎の冬の時代である。テレビが隆盛を誇り、映画が斜陽になる。ここで演芸界も本卦還り。落語や歌舞伎など古典芸能の復権である。こんな時期だからこそ、勘三郎さんの夭折は惜しいのだ。本人もまだまだやりたいこと残して、さぞ無念に違いない。
夕闇に目を澄ませば帰り花      (無得庵是空)

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