| 2月14日(金) | 乾坤一擲 青葉区版370号/都筑区版189号
小野田寛郎さんが亡くなったというニュースが流れたのは1月16日だった。91歳だという。フィリピンのジャングルの中で、戦争は続いていると信じて生き残っていた。それが30年後、昭和49年、日本に帰って来たのだ。その2年前の、昭和47年、グアム島にいた元日本兵・横井庄一さんが地元の人に発見され、「はずかしながら帰ってまいりました」と羽田に降り立っている。小さな島によく生き残っていたと日本中が驚嘆した。日本は経済的には大発展の真最中。田中角栄が首相に選ばれ、田中ブームが始まっていた。「日本列島改造論」、「日中国交回復」。日本の大転換期。巷にはモノがあふれていた。グアムのジャングルに生き残った横井庄一さんは戦後の日本に適応するかどうかと注目されたが、案外あっさりと溶け込んだ。経験を生かして「生活窮乏評論家」としてあちこちに引っ張り出された。一方の小野田寛郎さんは「もう戦争は終わった」という捜索隊の呼びかけにも、「これは米軍の謀略だ」と応じなかった。そんな中ひとりでやって来た冒険家の鈴木紀夫さんと出会う。この青年の人柄にうたれ、信頼できると、帰還する方向へ気持ちを切り替える。「どうすれば日本に帰ってくるんですか?」という鈴木さんの問いに、「命令によって好きでもない戦争をやっているのだ。命令をもって来い」。翌月、谷口元少佐がやってきて「任務解除」を命じた。このあたりのこと、当時、小野田寛郎さんは「違う日本人」だと誰もが感じたが、そういう潔さと信義を重んずる古い日本人を思い浮かべ感銘した人は多かった。投降の印として軍刀をマルコス大統領に差し出した。「これは格式の高い古いサムライのような振る舞い」だったとニューヨークタイムズは評している。そういう小野田寛郎さんは横井庄一さんとは違い戦後の日本にはなじまなかった。総理からもらった見舞金100万円を靖国神社へ寄付すると、あちこちから叩かれた。作家の野坂昭如の言動に怒り狂った。週刊誌の次のような談話を見てからである。「小野田さんはいろいろ偉そうなことを言ってるけれど、偉い面もあるが、遊撃戦にしろ残置諜報者にしろ、その本分は何も果たしていない。(後略)」。即決闘を申し込んだが周囲に止められた。彼が守ろうとした国も国民も既に消え失せてしまっていた。帰国から一年も絶たないうち、絶望し長兄次兄のいるブラジルへ移住する。牧場経営を成功させ、日本に帰り、青少年のために「小野田自然塾」を開設。中国でも、「小野田寛郎さんは真の軍人だ。」「この兵士の精神は全世界が学ぶべきだ」「大和民族は恐るべき民族。同時に尊敬すべき民族」という多くの書き込みがあるという。反日的な意見が多い中これは異例である。羽田空港に降り立ったときの眼光鋭き小野田寛郎さんの顔。今でも思い起こすことができる
あおばタイムズ http://www.ningenkobo.com |
|