![]() 勝負太刀 新流という剣術の流派がある。その技の勝負太刀にえんび身の金というものがある。これは太刀をさげてすらすらと敵に寄って誘い、太刀を打つ。それで燕が通るように、さっと後ろへ引く。敵が付け込んで打ってくる。さらにさっとうしろに飛たがえて身のかねをもって相手を打つ技である。これを、蜻蛉がえりともいっていた(撃剣叢談)、という話がございます。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 巻き藁切り 抜刀術 青仁斉靖邦 令和3年6月25日 |
![]() 宮本武蔵 ある日一人の少年が武蔵を訪ねてきた。父の仇討ちがあるのだが、必勝の太刀筋をご伝授願いたいというのだ。「よろしい授けよう。左に短刀を取り、右手に太刀を持ち、まっしぐらに駆け込め。敵の打つ太刀が短刀にかかった時、右の太刀で敵の胸先を突くがよろしい」。終夜この練習をして自得するところがあった。そこで再度武蔵を訪ねると、「快勝間違いなしである。明日その場に至り、腰を掛ける時、足元を見よ。蟻が這い出していたら、必勝の兆しだ」と言って少年を帰した。その場に着いて下を見ると蟻が出ている。いよいよ心丈夫に思い、勝負に及んだ。武蔵の教えたとおり、何の苦もなく、相手を倒した、という話がございます。 本多青仁斎靖邦のひとりごと http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和3年5月15日 |
![]() 剣と杖 合気道の稽古の中に、杖術を取り入れたのは大成功だった。合気道の技は型なので技を掛けたら受け手は投げられる動作をしなければならない。少年部でこういう稽古をしていると腰を使わなくても技が成り立ってしまうので鋭い動きが育たない。一般部の大人にはこの「取り」と「受け」の申し合いは問題ない。ただ正確にいうと武術の基本、身体のバランス、これを養う稽古がいる。そこに杖の稽古だ。これは腰を使う鍛錬なのだ。子供にも大人にも悪いはずがない。 本多青仁斎靖邦のひとりごと http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和3年5月3日 |
![]() 幕末の謎 どうも私の血には南朝系の一族の血が入ってるようだ。楠木正成像を皇居で見てから身体の中を何か得体の知れないものが蠢く。生まれは熊本・八代。後醍醐天皇の何番目かの皇子が懐良親王。九州に派遣されている。明と交流。墓は八代にある。父方の縁続きに横井がある。横井小楠は南朝復活の推進者。西郷隆盛は南朝の菊池一族の子孫。幕末の大回転はこの南朝復活劇なのだ。この一大ドラマ、入って行けば行くほど心躍る。 本多青仁斎靖邦のひとりごと http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和3年4月21日 |
![]() 剣客の心得 小次郎と武蔵、船島の戦い、この試合からいろいろと学ぶことがある。当時の勝負は真剣だから、剣技のほかに駆け引きも必要だった。早く行って機先を制したりしたが、小次郎との試合は逆に遅らせた。その前に小次郎の刀の長さを聞いておいて、それより長い木刀を作って出かけた。わざと時間を遅らせて、小次郎をじりじりさせた。平静さをまず破っておき、試合前に小次郎が鞘を捨てると、「この勝負、わしの勝じゃ」と、声をかけ、「何と申す」と答えると、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」。こうして小次郎を怒らせ、動揺させる。自分の勝利を確実に導いている。戦争でいうと外交戦、宣伝戦にあたるものだ、という話がござます。 日本剣豪列伝・直木三十五著 より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年4月7日 |
![]() 清水次郎長と山岡鉄舟 函館を目指した榎本武揚の軍艦は嵐にあって駿河湾へ。官軍の軍艦の攻撃で乗組員はメチャメチャ。清水の港、その死体を官軍を恐れて誰も手を出さない。「あの死体を片付けろ」と命令したのが、清水次郎長である。駿府にいた鉄舟は次郎長のところへやってきた。「何故、許可なく死体を片付けた」「船の邪魔になりますからのう」「お前は幕府に関係あるのか」「いいえ。死にやあ、旦那、仏様だあ」鉄舟は笑って、「よくやった」、「見上げたもんだ」。山岡鉄舟と侠客・次郎長との出会いである。ある時、「墓を建てるから、何か書いてくれませんか」。鉄舟は快く承諾して、「壮士之墓」とい文字をしたためた。それいらい二人は深く交際することになった。 日本剣豪列伝 直木三十五著 より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年4月1日 |
![]() 和田平助 新田宮流を開いた水戸の和田平助、性質狷介不遜、人を凌ぎ、その子供にも仮借することがなかった。こういう武士というのはそう珍しくなかったが、平助はちょっと異常。息子の金五郎もなかなかの達人だったが、少しも油断させない。不意に暗いところで打ってかかったり、寝ているところを侵撃するのは毎回だった。それでも息子・金五郎は一度も打たれたことがなかった。金五郎はかつて長刀を振って飛び回る蜻蛉を寸断するというほど、優れた武芸者だった。しかし、さすがの父の厳酷には耐え切れず、父に先立って天国に行ってしまった。(日本剣道史) 中里介山 日本武術神妙記より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年月3月3日 |
![]() 剣客の心得 小次郎と武蔵、船島の戦い、この試合からいろいろと学ぶことがある。当時の勝負は真剣だから、剣技のほかに駆け引きも必要だった。早く行って機先を制したりしたが、小次郎との試合は逆に遅らせた。その前に小次郎の刀の長さを聞いておいて、それより長い木刀を作って出かけた。わざと時間を遅らせて、小次郎をじりじりさせた。平静さをまず破っておき、試合前に小次郎が鞘を捨てると、「この勝負、わしの勝じゃ」と、声をかけ、「何と申す」と答えると、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」。こうして小次郎を怒らせ、動揺させる。自分の勝利を確実に導いている。戦争でいうと外交戦、宣伝戦にあたるものだ、という話がござます。 日本剣豪列伝・直木三十五著 より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年2月28日 |
![]() 古老茶話 古老茶話という書物によると、宮本武蔵が豊前の小倉で佐々木眼柳という剣術使いと同船した。船中で仕合のことを申し出し、武蔵は櫂を持ちながら岸に上がる、眼柳は真剣を持って横になぐる、武蔵が飛び上がるとその皮袴の裾を一寸ばかり横に切った。武蔵は持った櫂をもって眼柳を船の中に打ちひしいだ。これよりその島を眼柳嶌と名付けた。「武蔵は一生の間に七十五度試合をして残さず勝っている」とその書物には書いてある。 中里介山 日本武術神妙記より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年2月24日 |
![]() 新之丞 柳生流の弟子の新之丞という者、紀州に召し出された。殿様が「柳生流に無刀取りというものがあるということだが、本当か」。「ございます。習いました」。「果たしてその方無刀取りができるか」。「武士というもの偽りを申さぬものです」それ、と合図をする、お酌の者、抜き打ちに斬ってかかると、新之丞はひしとその刀を取ってしまった。また一人抜き打ちに横なぐりに斬りつけたがそれも取ってしまった。その後、新之丞、尾張に行ったとき、剣術の達人たちが仕合を望んで来た。大勢で矢来を結んで、その中で試合をすることになった。‭一人の剣士の眉間を一打に打ち砕いてしまった。他の弟子どもがそれ撃ち殺せ、と騒いでいる間、矢来をくぐって出てしまった。その時木刀を落としてしまった。その木刀はこっちが勝った印に取り上げたという。それならばと新之丞は再勝負を申し出て、こういった、「今度も前に打ち砕いた処を同じように打ち砕いて見せよう」と言って、果たしてそのとおり前の試合と同じところを打ち砕いた。という話がございます。 中里介山 日本武術神妙記より 本多青仁斎靖邦のひとりごと 令和3年月2月23日 |
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