和田平助

和田平助

新田宮流を開いた水戸の和田平助、性質狷介不遜、人を凌ぎ、その子供にも仮借することがなかった。こういう武士というのはそう珍しくなかったが、平助はちょっと異常。息子の金五郎もなかなかの達人だったが、少しも油断させない。不意に暗いところで打ってかかったり、寝ているところを侵撃するのは毎回だった。それでも息子・金五郎は一度も打たれたことがなかった。金五郎はかつて長刀を振って飛び回る蜻蛉を寸断するというほど、優れた武芸者だった。しかし、さすがの父の厳酷には耐え切れず、父に先立って天国に行ってしまった。(日本剣道史)

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年月3月3日
剣客の心得

剣客の心得

小次郎と武蔵、船島の戦い、この試合からいろいろと学ぶことがある。当時の勝負は真剣だから、剣技のほかに駆け引きも必要だった。早く行って機先を制したりしたが、小次郎との試合は逆に遅らせた。その前に小次郎の刀の長さを聞いておいて、それより長い木刀を作って出かけた。わざと時間を遅らせて、小次郎をじりじりさせた。平静さをまず破っておき、試合前に小次郎が鞘を捨てると、「この勝負、わしの勝じゃ」と、声をかけ、「何と申す」と答えると、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」。こうして小次郎を怒らせ、動揺させる。自分の勝利を確実に導いている。戦争でいうと外交戦、宣伝戦にあたるものだ、という話がござます。

日本剣豪列伝・直木三十五著 より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年2月28日
古老茶話

古老茶話

古老茶話という書物によると、宮本武蔵が豊前の小倉で佐々木眼柳という剣術使いと同船した。船中で仕合のことを申し出し、武蔵は櫂を持ちながら岸に上がる、眼柳は真剣を持って横になぐる、武蔵が飛び上がるとその皮袴の裾を一寸ばかり横に切った。武蔵は持った櫂をもって眼柳を船の中に打ちひしいだ。これよりその島を眼柳嶌と名付けた。「武蔵は一生の間に七十五度試合をして残さず勝っている」とその書物には書いてある。

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年2月24日
新之丞

新之丞

柳生流の弟子の新之丞という者、紀州に召し出された。殿様が「柳生流に無刀取りというものがあるということだが、本当か」。「ございます。習いました」。「果たしてその方無刀取りができるか」。「武士というもの偽りを申さぬものです」それ、と合図をする、お酌の者、抜き打ちに斬ってかかると、新之丞はひしとその刀を取ってしまった。また一人抜き打ちに横なぐりに斬りつけたがそれも取ってしまった。その後、新之丞、尾張に行ったとき、剣術の達人たちが仕合を望んで来た。大勢で矢来を結んで、その中で試合をすることになった。‭一人の剣士の眉間を一打に打ち砕いてしまった。他の弟子どもがそれ撃ち殺せ、と騒いでいる間、矢来をくぐって出てしまった。その時木刀を落としてしまった。その木刀はこっちが勝った印に取り上げたという。それならばと新之丞は再勝負を申し出て、こういった、「今度も前に打ち砕いた処を同じように打ち砕いて見せよう」と言って、果たしてそのとおり前の試合と同じところを打ち砕いた。という話がございます。

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年月2月23日
古老茶話

古老茶話

古老茶話という書物によると、宮本武蔵が豊前の小倉で佐々木眼柳という剣術使いと同船した。船中で仕合のことを申し出し、武蔵は櫂を持ちながら岸に上がる、眼柳は真剣を持って横になぐる、武蔵が飛び上がるとその皮袴の裾を一寸ばかり横に切った。武蔵は持った櫂をもって眼柳を船の中に打ちひしいだ。これよりその島を眼柳嶌と名付けた。「武蔵は一生の間に七十五度試合をして残さず勝っている」とその書物には書いてある。

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年2月21日
清水次郎長と山岡鉄舟

清水次郎長と山岡鉄舟


函館を目指した榎本武揚の軍艦は嵐にあって駿河湾へ。官軍の軍艦の攻撃で乗組員はメチャメチャ。清水の港、その死体を官軍を恐れて誰も手を出さない。「あの死体を片付けろ」と命令したのが、清水次郎長である。駿府にいた鉄舟は次郎長のところへやってきた。「何故、許可なく死体を片付けた」「船の邪魔になりますからのう」「お前は幕府に関係あるのか」「いいえ。死にやあ、旦那、仏様だあ」鉄舟は笑って、「よくやった」、「見上げたもんだ」。山岡鉄舟と侠客・次郎長との出会いである。ある時、「墓を建てるから、何か書いてくれませんか」。鉄舟は快く承諾して、「壮士之墓」とい文字をしたためた。それいらい二人は深く交際することになった。

日本剣豪列伝 直木三十五著 より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年2月19日
勝負太刀

勝負太刀

新流という剣術の流派がある。その技の勝負太刀にえんび身の金というものがある。これは太刀をさげてすらすらと敵に寄って誘い、太刀を打つ。それで燕が通るように、さっと後ろへ引く。敵が付け込んで打ってくる。さらにさっとうしろに飛たがえて身のかねをもって相手を打つ技である。これを、蜻蛉がえりともいっていた(撃剣叢談)、という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou
令和3年2月17日
打ち抜き

打ち抜き

突きを入れた時は、いつも向こうの裏へ二三尺も突き抜く心持で突く、柔術稽古中人を投げるに畳の上に投げると思うてはとても人は投げられぬ。ねだを打ち抜き土の中へ三尺も投げ込む心持で投げることである。一刀流の海保帆平曰く「こひらから上段より向こうの面を打つ時は必ず向こうの肛門まで打ち割る心持で打つべし」(剣術名人法)

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和3年月1月27日
古老茶話

古老茶話

古老茶話という書物によると、宮本武蔵が豊前の小倉で佐々木眼柳という剣術使いと同船した。船中で仕合のことを申し出し、武蔵は櫂を持ちながら岸に上がる、眼柳は真剣を持って横になぐる、武蔵が飛び上がるとその皮袴の裾を一寸ばかり横に切った。武蔵は持った櫂をもって眼柳を船の中に打ちひしいだ。これよりその島を眼柳嶌と名付けた。「武蔵は一生の間に七十五度試合をして残さず勝っている」とその書物には書いてある。

中里介山 日本武術神妙記より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和2年9月30日


上泉伊勢守信綱

上泉伊勢守信綱

上泉伊勢守信綱。新陰流の創始者である。竹刀を使って稽古をしたのが信綱である。今の竹刀とは違う。袋竹刀である。当時の試合は、木刀か真剣かである。稽古も木刀か刃引きの真剣だった。勝負というのは傷ついても殺されても仕方がない。稽古の時に、木刀でポンポン打たれてはかなわない。これでは本当の稽古にならない。それで信綱は打っても疵付かない袋竹刀を作ったという訳だ。これは新陰流だけが使った。一刀流やそのほかの流派では、「子供だましが」と罵倒して、決して竹刀を使わなかった。木刀の稽古と、竹刀の稽古とは一長一短で、同じ三尺六寸でも、竹刀は短く見え、木刀が長く見える。木刀より真剣のほうがまた長く見える。竹刀試合ばかりしていると、いざという時に真剣はもっと長く見えて扱いにくいのだ。という話がございます

日本剣豪列伝 直木三十五著より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和2年7月22日
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