剣客の心得

剣客の心得

小次郎と武蔵、船島の戦い、この試合からいろいろと学ぶことがある。当時の勝負は真剣だから、剣技のほかに駆け引きも必要だった。早く行って機先を制したりしたが、小次郎との試合は逆に遅らせた。その前に小次郎の刀の長さを聞いておいて、それより長い木刀を作って出かけた。わざと時間を遅らせて、小次郎をじりじりさせた。平静さをまず破っておき、試合前に小次郎が鞘を捨てると、「この勝負、わしの勝じゃ」と、声をかけ、「何と申す」と答えると、「勝つ気なら、鞘は捨てぬぞ」。こうして小次郎を怒らせ、動揺させる。自分の勝利を確実に導いている。戦争でいうと外交戦、宣伝戦にあたるものだ、という話がござます。

日本剣豪列伝・直木三十五著 より

本多青仁斎靖邦のひとりごと
令和2年3月24日
山岡静山

山岡静山

山岡静山は江戸幕府の旗本。幼児より各方面の武術を研究していた。悟ところあって19歳の時、槍術に心を傾け22歳の時、府内に及ぶものがなかった。その頃、筑後柳川の人で南里紀介というものがいた。槍を取ったら天下無双と言われていた。それが江戸に出て静山に会い、試合を申し込んだ。その光景は壮烈の極みで、朝の8時に始まって午後の4時まで。壮烈を極めたが、勝負は決せず引き分け。双方の槍を見ると穂先は砕け、一寸余り欠けていた、という話がございます。この山岡静山は山岡鉄舟にはあらず。

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令和2年2月9日


勝負太刀

勝負太刀

新流という剣術の流派がある。その技の勝負太刀にえんび身の金というものがある。これは太刀をさげてすらすらと敵に寄って誘い、太刀を打つ。それで燕が通るように、さっと後ろへ引く。敵が付け込んで打ってくる。さらにさっとうしろに飛たがえて身のかねをもって相手を打つ技である。これを、蜻蛉がえりともいっていた(撃剣叢談)、という話がございます。

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令和2年1月25日



夢想権之助

夢想権之助

武蔵が播州に在った時、夢想権之助という兵法使いが訪ねて来た。試合を所望する。武蔵はちょうど楊弓の細工に夢中だった。夢想権之助は「兵法天下一夢想権之助」と背中に書いた羽織を着て、大太刀を携えていた。武蔵は楊弓の折を持って立ち合い、夢想権之助を少しも働かせなかった、というはなしがございます。楊弓とは遊戯用の小弓、弓として使わずそのもので構えたということ。この夢想権之助はこれを機に宮本武蔵を倒すために、杖術を始める。これが神道夢想流杖術として完成する。

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令和元年12月20日

小太刀 半七

小太刀 半七

二代将軍徳川秀忠の時に、小太刀半七という剣法の達者がいた。鉄扇を持って仕合をすることに妙を得てるということを聞いて、秀忠、半七に、こう尋ねた。「何かそれには特別の術があるのか」、と。すると半七、「別に何の術もござりませぬが、仕合を致しまする時に、何となく面白いこころ持ちが致すところが極意というものございましょう」。秀忠は大いに感心して、「すべての戦に臨んでもその通り、面白しとさえ思えば恐ろしいところはなくなって、謀も自ずから出てこようというものである。小さな争いごとにも心が迫ってそこにとらわれてしまうと、手ぬるくなっておくれをとってしまうものだ」と言ったという、話がございます。(三河乃物語)

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令和元年11月13日

宮本武蔵

宮本武蔵

宮本武蔵政名は播州の人、二刀の名人である。十三歳の時に播州に於いて有馬喜兵衛と勝負をし、十六歳の時に但馬に於いて秋山と勝負してこれを撃破する。後、京都に於いて吉岡と勝負を決して勝ち、船島に於いて、巌流を撃破した。凡そ十三歳より勝負をなすこと六十有余度、一度も後れをとったことがない、と本朝武芸小伝に記録が残っている。

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令和元年10月26日
本多忠勝

本多忠勝

本多平八郎忠勝は槍をとっての戦場に於いては古今無双の勇将とも云われていたが、槍術は甚だ下手であったということである。しかし、個人的には下手であっても戦場に出でて敵と戦う時は、その槍の働き、古今無双と称せらるるは、知らぬ人が見ると、意外という思うより外はなかった、という話がございます。(甲子夜話)


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令和元年10月6日

「七転八起 努力無尽」
男谷と島田

男谷と島田

男谷下総守と島田虎之助との仕合を見たという人の話に、一礼して立ち上がって互いに気合を入れて、一方がじりりとつけ込めば、一方はあとに圧迫される。一方が盛り返してつけ込めば、一方はあとに圧迫されること数回、遂に勝負を見ることが出来ず、相引となった。男谷下総守が面を取って、「いや、よい稽古にあずかりました。まいりました」と挨拶すると、島田虎之助、顔面蒼白、口が利けず、殆んど卒倒せんばかりになっていたという、話しがございます。

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令和元年9月25日

写真は秋の剣術・杖術講習会での審査
原田藤六

原田藤六

原田藤六という朴勇の武士がいた。ある日縁の下に籠もった賊がいると聞いて、裸体になって縄をもって縁の下にもぐった。まもなく捕えて来た。この藤六、ある時、今時の槍術を謗った。それを聞いた槍術家が、怒って試合を申し込んで来た。藤六もそれに応じていうことには「我等が仕合は今時の仕合とは違う。目を一つぐらい潰されても負けという事にはしない。片輪になろうがかまわない。最後は首を取るのを仕合というのだ。その心得で仕合をしたい」というと、その槍術家も、「おもしろい、然らば」ということになった。これは大変だ、と止めるものがあった、ということだが、諸説あって、やったか、やらなかったか、はっきりしない、という話しがございます。

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令和元年9月14日

写真は秋の剣術・杖術講習会での審査


戈を止む

戈を止む

「本来、武という文字は戈を止むると書し、平和を意味するものなり。名工岡崎正宗が刀を鍛える時の心中、常に平和を祈願していた、という」倫理御進講草案(杉浦重剛著)、武は戈を止む、武道の稽古の目的は心を鍛える、ということ、肝に銘ずるべし。

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令和元年9月3日

写真は秋の剣術・杖術講習会での審査

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