![]() 夢想権之助 武蔵が播州に在った時、夢想権之助という兵法使いが訪ねて来た。試合を所望する。武蔵はちょうど楊弓の細工に夢中だった。夢想権之助は「兵法天下一夢想権之助」と背中に書いた羽織を着て、大太刀を携えていた。武蔵は楊弓の折を持って立ち合い、夢想権之助を少しも働かせなかった、というはなしがございます。楊弓とは遊戯用の小弓、弓として使わずそのもので構えたということ。この夢想権之助はこれを機に宮本武蔵を倒すために、杖術を始める。これが神道夢想流杖術として完成する。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年12月20日 |
![]() 小太刀 半七 二代将軍徳川秀忠の時に、小太刀半七という剣法の達者がいた。鉄扇を持って仕合をすることに妙を得てるということを聞いて、秀忠、半七に、こう尋ねた。「何かそれには特別の術があるのか」、と。すると半七、「別に何の術もござりませぬが、仕合を致しまする時に、何となく面白いこころ持ちが致すところが極意というものございましょう」。秀忠は大いに感心して、「すべての戦に臨んでもその通り、面白しとさえ思えば恐ろしいところはなくなって、謀も自ずから出てこようというものである。小さな争いごとにも心が迫ってそこにとらわれてしまうと、手ぬるくなっておくれをとってしまうものだ」と言ったという、話がございます。(三河乃物語) 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年11月13日 |
![]() 宮本武蔵 宮本武蔵政名は播州の人、二刀の名人である。十三歳の時に播州に於いて有馬喜兵衛と勝負をし、十六歳の時に但馬に於いて秋山と勝負してこれを撃破する。後、京都に於いて吉岡と勝負を決して勝ち、船島に於いて、巌流を撃破した。凡そ十三歳より勝負をなすこと六十有余度、一度も後れをとったことがない、と本朝武芸小伝に記録が残っている。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年10月26日 |
![]() 本多忠勝 本多平八郎忠勝は槍をとっての戦場に於いては古今無双の勇将とも云われていたが、槍術は甚だ下手であったということである。しかし、個人的には下手であっても戦場に出でて敵と戦う時は、その槍の働き、古今無双と称せらるるは、知らぬ人が見ると、意外という思うより外はなかった、という話がございます。(甲子夜話) 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年10月6日 「七転八起 努力無尽」 |
![]() 男谷と島田 男谷下総守と島田虎之助との仕合を見たという人の話に、一礼して立ち上がって互いに気合を入れて、一方がじりりとつけ込めば、一方はあとに圧迫される。一方が盛り返してつけ込めば、一方はあとに圧迫されること数回、遂に勝負を見ることが出来ず、相引となった。男谷下総守が面を取って、「いや、よい稽古にあずかりました。まいりました」と挨拶すると、島田虎之助、顔面蒼白、口が利けず、殆んど卒倒せんばかりになっていたという、話しがございます。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年9月25日 写真は秋の剣術・杖術講習会での審査 |
![]() 原田藤六 原田藤六という朴勇の武士がいた。ある日縁の下に籠もった賊がいると聞いて、裸体になって縄をもって縁の下にもぐった。まもなく捕えて来た。この藤六、ある時、今時の槍術を謗った。それを聞いた槍術家が、怒って試合を申し込んで来た。藤六もそれに応じていうことには「我等が仕合は今時の仕合とは違う。目を一つぐらい潰されても負けという事にはしない。片輪になろうがかまわない。最後は首を取るのを仕合というのだ。その心得で仕合をしたい」というと、その槍術家も、「おもしろい、然らば」ということになった。これは大変だ、と止めるものがあった、ということだが、諸説あって、やったか、やらなかったか、はっきりしない、という話しがございます。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年9月14日 写真は秋の剣術・杖術講習会での審査 |
![]() 戈を止む 「本来、武という文字は戈を止むると書し、平和を意味するものなり。名工岡崎正宗が刀を鍛える時の心中、常に平和を祈願していた、という」倫理御進講草案(杉浦重剛著)、武は戈を止む、武道の稽古の目的は心を鍛える、ということ、肝に銘ずるべし。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年9月3日 写真は秋の剣術・杖術講習会での審査 |
![]() 柳生宗厳 柳生宗厳、晩年或る事の為人に怨まれ、その者は如何にしても宗厳を討ち果たそうとしたが、隙がなかった。ある時宗厳は病気にかかって摂津の有馬に湯治に行った。某はひそかにその後をつけて行った。日夜動静を窺がう。やはり名人、隙がない。ある時まわりの付け人もいない、たった一人小刀を携えて南の日当たりのよいところ座って愛鷹の隼を拳に置いて可愛がっている。ここぞとばかり斬りつけた。その瞬間、宗厳は抜く手も見せず、腰の小刀を抜いて敵の急所を突いた。某はあえなくその場に斃れた。その時、柳生宗厳の拳の上の愛鷹、隼はもとのまま身動きもしなかった、という話しがございます。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年8月12日 労而不伐 有功而不徳 厚之至也 |
![]() 眼柳島 古老茶話という書物がある。宮本武蔵、豊前の小倉で、佐々木眼柳という剣術者と同じ船になった。試合の話しに及んだ。それでは、と、武蔵は櫂を持ちながら岸に上がった。眼柳は武蔵が上がるところを横になぐる。すると武蔵の皮袴の裾を一寸ばかり切ってしまった。武蔵は持っていった櫂で眼柳をその船の中に打ちひしいだ。この時よりその島を眼柳島と名付けた。さらにその書物には「武蔵は一生の間に七十五度試合をして残さず勝っている」と書いてある。巌流島の決闘というのは、このような闘いだったのか? 実に面白い話しである。 本多青仁斎靖邦のひとりごと 合気道青葉塾道場 http://www.ningenkobo.com/aikidou 令和元年7月23日 写真は第41回全日本合気道少年錬成大会 日本武道館 令和元年7月14日 |
![]() 眼 |
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