塚原卜伝

塚原卜伝

塚原卜伝は常陸国鹿島郡塚原村の人。卜伝の旅先での出来事。乗合の渡し船に乗った。中に逞しい壮士がいた。傍若無人、兵法の自慢をしていた。卜伝はあまりのことで、「貴殿はなかなかの兵法家のようだが、勝つことよりも負けぬようにすることだと思うが、いかがかな」など武術論議が、とうとう、お手合わせ願おう、と挑戦されてしまった。あの離れの小島ではどうだ。よろしい、と卜伝。島に飛び降りた自慢の男、3尺8寸の刀を抜いて、さあ来い。卜伝、応じるような構えをして、船頭の竿を借りると、船を島から遠ざけてしまって。「これぞ、無手勝流の奥義でござる」。塚原卜伝の武勇伝の一つとして語り継がれている。

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清水次郎長

清水次郎長

駿河の国の侠客といえば清水次郎長。剣術は学んではいない。ところが真剣の場で一度も負けたことがなかった。当時、よく言っていたのが、敵と向かった時、相手が打ち込んで来る、相手の剣がこっちとかち合って音がする、その瞬間、一振り振って敵を斬るというのである。何故か、これで相手を切り倒せぬことはなかった。清水の次郎長、剣術極意、の一席である。

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無心

無心

猿を飼ってる侍がいた。竹刀を持って突くと、飛び上がる。くぐり入ったり、竹の先をつかまえたりなどして、なかなか突くことが出来ない。或る日、猿をからかって突いてやろうと待ってるところに、急用があって家人に「もし」と声をかけられた。「なんだ」と返事しながら突くと、何の苦もなく突けた、という話がございます。

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写真の刀は「兼友」、抜刀用に使っている。重い。重厚。





無眼流

無眼流

無眼流。この剣術が作られたのは一人の盲人がヒント。武者修行の途中、長い谷があってその渓流を渡る橋は丸木橋。簡単に渡れそうにない。どうしたものかと岩に腰掛けていると、一人の盲人がやってきた。どうするかな、と見てると、左右からその丸木橋を杖で探り何の苦もなく向こう岸に渡ってしまった。これだ!と手を打った。剣術も余計なものが見えるから動けない。見えないほうがいい、と眼をつぶって稽古をするという流派を作ってしまったという、話がございます。

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二矢を持たぬ

二矢を持たぬ

弓矢の稽古をしてる時、二つの矢をたばさんで的に向かうと、それを見て師匠がこう言った。「初心の人は二つの矢をもたないほうがいい。後の矢を頼んで、初めの矢になおざりの心がある。毎度、この一矢と定めて置くと得失はないものじゃ」。このことは万事にあてはまる興味深い話である。


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松林蝙也

松林蝙也

常州鹿島に松林蝙也という武人がいた。弟子たちと蛍狩りに出かける。すると一人の弟子が背後から出し抜けに肩を押した。蝙也はたちまち前の岸に飛び移って平然としている。これはスキがあれば襲えと言ってあるからだ。宴も終って家に帰ると先ほどの弟子がやって来た。「お前、何か失くし物はないか」。「いかにもそことです。大切なもの失くしました」。布団の下から白刃を取り出して、「これか?」と蝙也。押された瞬間に刀を抜いて飛んでいたのだ。これには弟子たちもその神速軽易の妙用に恐れ入ってしまった。

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さとり

さとり

木こりが木を切り倒していると、変わった動物が現われた。角が一つで目が一つ。珍しい動物だ。これがさとりというんだな。捕えてやろう、と思った。すると、「おい、オレを捕まえるのか?無理だな」という。それからこっちの思うことがすべて悟られてしまう。これじゃあどうもこうも仕方ない。仕事にとりかかろう。無視して木を切ってると、斧が自然に飛びぬけてさとりの頭を打ち抜いてしまった。武術は無念無想になれば上等。武術の妙味はそこにあるという「さとり」のお話である。

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嘉納治五郎

嘉納治五郎

講道館柔道の嘉納治五郎。なかなかの人物で日本古来の柔術をうまくまとめて世界の柔道に仕上げてしまった。初期の門弟は各派柔術の猛者である。西郷四郎は、会津藩、大東流柔術の流れを汲む。木村の前に木村なし、の昭和の柔道王、木村政彦は熊本の三大柔術、四天流、扱心流、竹内三統流を稽古していた。それをうまく講道館が。木村の師匠が、牛島辰熊。鬼の辰熊であり、これも柔術から講道館へ。嘉納治五郎は柔術の乱取りを試合形式にした。ここで武術である柔道がスポーツになってしまったのだ。嘉納治五郎、柔道をこういう形にしようとは思わなかった。ある年齢が来ると、高段者たちには、植芝盛平翁の合気道を勧めていたという話が残っている。

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保科正之

保科正之

大東流合気術に植芝盛平翁が出会ったのは会津藩の武田惣角がこの秘伝を身につけていたからで、弟子になって、修得している。会津と甲州の武田源氏とどういうかかわりがあったのか。これが歴史の妙である。会津藩初代は保科正之。徳川家康の孫。信濃高遠藩の養子になる。この藩は元武田家の家臣団。これが会津藩に移るのだ。新羅三郎源義光の秘伝・大東流合気術はここで脈々と引き継がれる。最後の家老、西郷頼母、これが武田惣角に引き継ぐ。西郷頼母の養子に西郷四郎がいる。あの姿三四郎のモデルである。大善寺はその武田源氏、終焉の地なのだから、このあたりがなんとなく歴史の重さを感じさせる。とにかく、合気道を志すもの、このあたりの空気、感じていいだろう。


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甲斐の金山

甲斐の金山

甲斐武田が栄えたのは各地に金山があったからだ。越後の上杉には佐渡がある。奥州平泉の藤原、頼朝がその力を恐れたのはやはり金である。武田の隠し金山の一つが大善寺の裏山、大滝山。合宿中はそこで昼飯を作る。その水源に滝がある。クルマで30分。金塊はその上部の男滝あたりだといわれている。武田勝頼亡き後、ここを治めたのが徳川家康。家康の腹。裏には、やはり金がちらつく。

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写真の上あたり男滝。今年は勢いがない。
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