小太刀半七

小太刀半七

二代将軍秀忠が、小太刀半七というものが鉄扇で試合をすることに妙を得ていると聞いて、それには特別の術があるのかと訊ねると、「何の術もありませぬ。ただ試合をする時に何となく面白い心持が致すのが極意でございます」とこたえた。秀忠大いに感心して、「全ての戦に臨んでもその通り、面白しとさえ思えば恐ろしいことはなくななって、はかりごとも自ずから出て来るものである。心の持ち方だ。」と感心した、という話がございます。(三河物語)

本多青仁斎靖邦のひとりごと
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平成30年4月13日
武装と甲冑

武装と甲冑

昔の武士は剣術よりは、居合、抜き打ち、を専ら習った。鎧兜を着けているから刀を抜くというのは大変。だから念を入れたのだ。加藤清正が宇土を攻めた時、南条玄宅というものが三角角左衛門と槍を合わせた。後へ抜けた玄宅を、角左衛門の若党が、得たり、と額を斬った。玄宅は目がくらんだが、くるりと回って、刀を抜いて、その若党を胴斬りにしてしまった。その時、玄宅は居合い抜きがやれなければ、自分の身はたまらなかった、と言った…という話がございます。


本多青仁斎靖邦のひとりごと
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平成30年3月31日

空は満月 道場を覗く   菩提亭写多・撮影
相討ち

相討ち

徳川時代、幕府の御流儀として栄えた柳生流の教ゆる所の趣旨は相討ちなり。すなわち敵を斬ると同時に己ももまた敵刃に倒るる決心を持って打ち込むことを教ゆ。かくてこそ真の勝利を得るものなり(剣道の発達)。という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
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中村一心斎

中村一心斎

中村一心斎、富士浅間流剣術の祖、である。元々久留米の藩士であるが、感ずるところあって富士山中の岩窟に篭って修行した人である。70歳を過ぎて水戸藩に試合を申し入れた。若者を相手に悉く勝利した。中でも水戸藩随一の使い手といわれた鵜殿力乃助とは勝負がつかなかった。老齢の身、三本勝負だったのだが、何しても恐るべき精力で、居合わせた水戸藩士たちを感嘆させた(剣術名人伝)、という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
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二の矢を持たぬこと

二の矢を持たぬこと

或る弓の道場に、弓を習いたいとやって来た。見ると二つの矢をたばさんで的に向かっている。道場の主がそれを見て、「初心の人は二つの矢を持たないほうがよろしい。後の矢を頼んで、初めの矢になおざりの心がある。毎度、ただこの一矢と定めて置けば得失がないものじゃ」。この言葉は万事にわたる面白い教訓である(武道初心集)、という話しがございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
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加藤右計

加藤右計

明和のころ加藤右計という柔術の達人がいた。ある時、柔術家に試合を望まれた。「それは無用なことだ。柔術の試合は最後どちらかが死ぬよりほかはない」。どうしてもというから立ち会った。その男、組み付くと直ぐ投げられて、壁を打ち抜いてその身は外へ飛び出して、即死。「是非というから立ち合ったがこのざまだ。だがこの男もたいしたもので、投げた時、当身で拙者のあばらを打ち砕いている」と肌をぬいで人に見せたところ、肋骨が一本折れたいた、という話がございます。「甲子夜話」より

本多青仁斎靖邦のひとりごと

合気道青葉塾道場機関紙「あしなみ」
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針の妙術

針の妙術

上遠野伊豆という人があった。武芸に達した上にわけて独流の手裏剣を工夫してその妙を極めていた。その方法は針を二本、中指の両側に挟んで投げ出す。思うところに当てないということはなかった。この妙技、この人一代だった。「元来この技は人に教えられたことではないから、何と伝うべきか由もない。ただ、根気よく二つの針を手につけて、打ってる間に、自ずから自得したまでのことである」、と云った… という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
平成30年2月11日

合気道青葉塾道場機関紙「あしなみ」
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第32回剣術・杖術講習会の講習風景









宮本武蔵 日本剣道史

宮本武蔵 日本剣道史

宮本武蔵がある夜、庭の涼み台に腰を掛け、団扇を持って涼んでいた。そこへ門弟の一人が武蔵の腕を試そうとして、不意に短刀を提げて涼み台に飛び上がって来た。その瞬間、武蔵はツト立ち上がりざま、ゴザの片側を掴んでぐっと引き寄せた。弟子はまっさかさまに倒れて落ちた。武蔵は何も騒ぐことなく平然としていた、という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
平成30年1月19日

合気道青葉塾道場機関紙「あしなみ」
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宮本武蔵 古老茶話

宮本武蔵 古老茶話

宮本武蔵は豊前小倉で佐々木眼柳という剣術使いと同船した。試合のことが申しだされた。武蔵は櫂を持って岸に上がる。眼柳は真剣を持った。武蔵は眼柳が横になぎってきたので飛び上がった。武蔵の皮袴の裾が1寸ばかり切られた。武蔵はその瞬間、櫂を振り下ろして打ちひしいた。その時からその島を眼柳島と名付けた、と「古老茶話」という書物に書かれている、という話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
平成30年1月9日

青葉塾道場機関紙「あしなみ」
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宮本武蔵 五輪の書

宮本武蔵 五輪の書

宮本武蔵、自身五輪の書の序に記していう。「我若年の昔より、兵法の道に心をかけ、十三にして初めて勝負をなす。その相手、有馬喜兵衛というものに打ち勝ち、十六歳で但馬の国秋山という強力の兵法者に勝つ。その後、処々の兵法者に出逢い、六十有余まで勝負すと雖も一度もその利を失わず。その程十三より二十八、九までのことなり。その後も朝鍛夕錬して、自ずから兵法の理に達したのは、五十歳のころなり」。剣の道を究める自身の修行を書き残した「五輪の書」というのが今でも読まれ続けている、宮本武蔵という剣豪の逸話がございます。

本多青仁斎靖邦のひとりごと
平成29年12月25日
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